日本の歴史江戸時代

「鬼の半蔵」と呼ばれた武将?!「服部半蔵正成」は、実は忍者ではなかった

4.伊賀忍者表舞台に立つ

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伊賀出身の服部家の一族だったからこそ活躍できた、「神君(しんくん・徳川家康)伊賀越え」という有名な話があります。天正9(1581)年に伊賀を攻めた信長の息子織田信雄(おだのぶかつ)が率いる軍が、伊賀者のゲリラ戦によって破れました。父信長の怒りを買い報復を受けてからひっそりと息を潜めて暮らさざるを得なかった、伊賀忍者たちに活躍の時が来たのです。

4-1家康最大の危機を救った半蔵

天正10(1582)年に、織田信長が明智光秀の謀反によって討たれた「本能寺の変」は皆さんもご存知でしょう。信長と同盟を結んでいた家康は、わずか30人のお伴を連れて大阪堺に遊覧で訪れており命の危険に晒されます。

一刻も早く自国の三河へ帰ろうとする家康は、光秀の討手によって行く手を阻まれてしまいました。先代が伊賀出だった半蔵は謹慎中(家康の身に危険が迫ったときのための配置だったとの説もあります。)だったのですが、即座に家康がいる堺に駆けつけました。縁故をたより伊賀や甲賀の有力者たちの協力を得ることができ、半蔵は家康を無事帰国させることができたのです。

4-2半蔵はどうやって家康を救った?

実は、伊賀者の中には信長に組する家康を憎んでいるものも、反対に家族が家康の世話になっているものもいたのです。半蔵はルートを慎重に選び交渉しながら、迅速かつ安全に家康を帰国させています。

親身になって半蔵を助けるものもあれば、金子を払い見逃してもらったルートもありました。もちろん、命の保障ができない厳しいルートもあったようです。こんな大役を成し遂げられるのは、家康の名だたる武将の中でも「服部半蔵」しかいませんでした。先代の強い人脈と忍者として活躍する兄弟の仲間の力が最大限に活かされた結果といえます半蔵の活躍があったからこそ命拾いをしたとして有名な話で、「神君(しんくん・徳川家康)伊賀越え」と呼ばれています

4-3超有名な門!「半蔵門」とは?

この時の、伊賀者の心情は複雑だったと思います。後に家康が江戸に入るときに、「神君(しんくん・徳川家康)伊賀越え」で協力した伊賀の人々は藤堂家に仕えることになりました。幕府の命を受けた藤堂家は、全国に伊賀忍者たちをばらまきます。諜報活動などを担う隠密として働くようになったのです。

一方半蔵は、江戸城西門の前に屋敷を構えており、西門の警護を任されました。それもそのはず、西門は何かあったときに、甲州街道を通り甲斐に逃げるためのルートの起点とされています。先ほど触れました、「神君(しんくん・徳川家康)伊賀越え」の功績があったからこそ任されたのでしょう。現在の江戸城は皇居となっているため、半蔵門を間近に見ることはできません。遠目には見ることができるので、興味がある方は、観光して記念写真を撮ってはいかがでしょう。

4-4半蔵の晩年と死

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二代目服部半蔵正成は、武将としても忍者としても目立った活躍はなかったようです。それなのに、徳川十六神将とされたのは、陰の存在としてしっかりと家康に仕えていた証拠でしょう。半蔵は慶長元(1597)年11月14日に55歳で病死し、家康の息子で非業の死を遂げた信康の霊を慰めるために、文禄2(1593)年に半蔵が建てた「西念寺(さいねんじ)」に埋葬されました。

お墓の他に寺の本堂には、家康から送られ半蔵が愛用していた槍を展示しています。槍は全長258cm、重さ7.5kgとズッシリと重みがあり、半蔵がどれだけの力持ちだったかが分かるようです。この西念寺は新宿区の指定史跡になっており、槍は区の登録文化財に指定されています。

誰もが忍者として認識する服部半蔵は、実は家康に仕える名武将だった!

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By KENPEI – Own work, CC BY-SA 3.0, Link

私たちが時代劇などで知っていた忍者服部半蔵とは、かなりイメージが違ったのではないでしょうか?家康が天下統一を果たすまで幾度となく命の危険に晒されました。でも天下人となれたのは、敵陣に突撃する命知らずの武将たちがいたからだと思います。槍を持ち戦場を走り回り名実ともに武将となった「鬼の半蔵」の姿は、勇ましかったことでしょう。

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