日本の歴史江戸時代

「鬼の半蔵」と呼ばれた武将?!「服部半蔵正成」は、実は忍者ではなかった

2-2家康の家臣として仕える半蔵

「上郷城攻め」の戦功を認めた家康から、浜松城で盃と持槍1本を拝受しています。この後の半蔵は家康のもとで、正式な家臣として働くことになりました。伊賀の忍者70人を率いて活躍した半蔵は、伊賀者200人を束ねる8000石の武将へと出世をします。

忍者を束ねるといっても、半蔵自身は忍びの技は使えなかったようですが…。父は忍者として生きましたが、半蔵は武将として生きることになったのです。

ちょっと雑学

忍者の故郷といえば伊賀や甲賀を思い浮かべるでしょう。でも、三重県や滋賀県が忍者発祥の地ではないんです。日本発祥ではなく、インドや中国など発祥については諸説あります。でも、源平時代後に、日本で発祥したという説が有力なようです。

存在が証明された書物などもない「陰」の存在の忍者ですが、彼らが最も活躍した戦国時代に入ってからは名武将や大名になった人物もいます。運動能力が抜群で、忍術を使う忍者って、謎が多いからこそハリウッド映画に登場するほど人々を魅了してやまないのでしょう。

3.家康の家臣となった服部半蔵正成

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家康に認められた半蔵は、戦場で伝令や戦功の観察を任務とする「使番」として働きます。この役には、器量に秀でたものが選ばれており、織田家では前田利家(まえだとしいえ)、武田家では真田昌幸(さなだまさゆき)が任命されています。このことからも服部半蔵が、どれだけ家康に信頼されたかが分かりますね。

3-1戦功を続けどんどん出世する半蔵

家康の信頼を得ていた半蔵は、永禄12(1569)年の「掛川の戦い」で、「使番」に任命され活躍します。人や馬など敵なら何であろうとお得意の大槍で、バタバタと倒しました。その強さに敵は、「五の字指物恐ろしや」と震え上がったとか。五の字の指物というのは、半蔵が黒地に白字で五と書き旗印にしていたからです。

更に、「服部半蔵鬼槍半蔵」と叫び、敵は悲鳴を上げ逃げ回ったとか。この「服部半蔵鬼槍半蔵」という言葉が縮まって、「鬼の半蔵」という言葉が誕生しました。「掛川の戦い」で猛者ぶりを見せつけた半蔵は、一気に名武将として名をあげ、「鬼の半蔵」との名を広めます。次に起った元亀元(1570)年の「姉川の戦い」では、一番槍の功名をあげ名武将として大活躍しました。

3-2家康は忍者の頭としての力に期待していた

武田軍に家康が大敗した、元亀3(1572)年の「三方ヶ原の戦い」でも、半蔵は大活躍しました。逃げる家康軍に追いついた武田勢を、痛手を負いながらも勇猛果敢に戦おうとしたというもの。早く撤退しなければと先を急ぐ家康に「ほっておけ!」といわれ、そのまま立ち去ったようですが…。

でも、戦でのあっぱれな働きぶりはもちろんですが、家康は半蔵に他の能力を見出しており、大きな期待を持っていたようです。それは、透波(すっぱ)と呼ばれる、武田軍の忍者の活動を妨害すること。半蔵が透波に関して、手柄を立てたという記録が残っています。家康の周辺でスパイ活動をしていた透波を見事にとらえ殺したというもの。伊賀の忍者200人を預けたのも、忍者の血筋ならではの力を発揮してほしいという家康の期待だったと思われます。

3-3起こってしまった「信康事件」

天正7(1579)年に、半蔵も自分の身を切るように辛かったと思われる「信康事件」が起こります。家康の正室築山殿(つきやまでん)と嫡男信康(のぶやす)が、武田家と内通していると、信長からいちゃもんをつけられたのです。

またこの頃、信康の居城である岡崎城を中心に、内部分裂の兆しがあるとの報告を受けます。これは、家康を快く思わない家臣が、信康を担ごうとしたからだとか。戦国時代の宿命というべきか、信長の手にはまった家康は、残念ながら嫡男信康に切腹を言い渡します。

その介錯を命ぜられたのが半蔵でした。家康からの弾刻状を読んだ信康は、愕然とするも「自分の無実を伝えてくれ。」と頼み切腹に応じました。しかし「鬼の半蔵」も、流石に主君は切れないと悲嘆しました。そこで同行していた、天方道興(あまがたみちおき)が介錯したと伝わっています。

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