同盟が破綻し、信長と敵対することに
同盟していた信長が、同じく同盟関係の朝倉義景を攻めたことで、長政は朝倉氏との同盟を優先させます。そして激怒した信長と姉川の戦いで決戦に及びますが、ここで大敗を喫することになりました。長政の運命が滅びへと向かうことになった経緯を見ていきましょう。
「義」を重んじた長政
そもそも、信長の越前侵攻が起きる要因となったのは、越前の朝倉義景のもとにいた足利義昭(あしかがよしあき)が信長を頼ったことでした。義景がいっこうに動かないことにしびれを切らした義昭は信長を頼り、信長は彼を奉じて上洛することにしたのです。これに際しては、長政は信長と義昭の上洛を援護しました。
この時、信長との同盟に反対していた重臣の遠藤直経からは、饗応の隙に信長を殺してしまえと進言がありますが、長政は「そんなことは信義に反する!」と受け入れなかったそうです。
何より「義」を重んじた長政。この直後に起こる信長との対立もまた、彼の信じる「義」を尊重したことから生じることになったのです。
朝倉氏との関係を優先し、信長を裏切る
元亀元(1570)年、信長は突如、朝倉攻めを開始しました。
長政は信じられない思いでこの報せを受け取りました。信長と同盟を結ぶ際に、朝倉を攻撃しないという約束が盛り込まれていたからです。
信長との関係を優先するか、朝倉義景との関係を優先するか、長政は悩みました。信長との同盟で最愛の妻・お市と結ばれたわけですが、先祖以来同盟を続ける朝倉氏との友誼もまた大事だったのです。
そして長政は、朝倉氏との関係を優先することに決め、信長軍の背後から襲いかかったのでした。信長もこれにはたまらず撤退していきます。
これこそ、彼の人生を左右する大きな決断でした。
姉川の戦いで大敗を喫す
長政の裏切りに、信長は激怒しました。そして同じ年、徳川家康と連合し、攻め込んで来たのです。
長政は朝倉義景と連合し、信長・家康軍を迎え撃ちました。これが姉川(あねがわ)の戦いです。
戦いは激烈をきわめ、多くの血が流れました。合戦のすさまじさを物語るかのように、今もその地には「血川(ちかわ)」や「血原(ちはら)」などの地名が残されているほどです。
結局、長政らは多くの損害を出し、信長に敗れることとなりました。
実はこの戦の直前、遠藤直経が長政に再度の進言を行っていたのです。信長の手腕を評価し、態度を改めた彼は、信長に付くようにと長政に勧めました。朝倉義景の動きがあまりに鈍いことにも不満を持っていたのです。
ところがまたしても、長政は直経の進言を退けました。隠居の身ではありましたが、父・久政の意思も働いていたようです。直経は失望しながら引き下がり、そのまま戦場の露と消えました。
信長の包囲の前に…小谷城で最期を遂げる
姉川の戦いの後、信長包囲網が崩れ始めると、長政はまたしても信長の侵攻を受けました。今度は、信長は浅井・朝倉を滅ぼしにかかってきたのです。長政は必至の抵抗を見せましたが、力及ばず、落城の時を迎えます。お市や娘たちを逃がした後、彼は短い命を燃やし尽くしたのでした。
なおも信長への抵抗を続ける
姉川の戦いで大敗を喫した長政でしたが、信長への攻撃を続けました。反信長勢力で構成された信長包囲網に参加し、朝倉義景や比叡山延暦寺、一向宗などと連携したのです。その時に起きた「志賀の陣(しがのじん)」では、朝倉軍と比叡山に2ヶ月間も籠城し、その間に別の反信長勢力を挙兵させ、信長を窮地に追い込みました。
ただこの結果、信長による比叡山焼き討ちが起き、元亀3(1572)年には包囲網の中核だった武田信玄が陣没するなど、信長包囲網は崩れ始めたのです。そして近江の豪族は次々と信長に降伏していきました。
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