室町時代戦国時代日本の歴史

長宗我部元親はどうやって軟弱な「姫若子」から勇猛な「鬼若子」となったのか

一条氏から独立し、土佐統一を完成する

土佐地方には公家の一条氏が下向してきており、高貴な血筋ということで周辺勢力は一条氏を尊重し、頂点に戴くという形で統治がなされてきていました。

しかし、一条兼定(いちじょうかねさだ)の時代になると、周辺勢力の方が力をつけたために兼定の威光が及ばなくなってきました。

元親も当初は兼定に従う形を取っていましたが、やがて彼の力が上回ったことを確信すると、一条氏からの独立を図るようになります。そして天正3(1575)年、兼定との間で起きた「四万十川(しまんとがわ)の戦い」で大勝利を収め、ついに元親は一条氏からの独立を果たし、先祖代々の悲願だった土佐統一を成し遂げたのでした。

四国統一の野望を織田信長と豊臣秀吉に阻まれる

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土佐一国では満足せず、元親は四国統一へと乗り出しました。織田信長と同盟を結んだ彼ですが、信長からの理不尽な約束の撤回により、対立へと至ります。信長の死後は豊臣秀吉とも対立し、やがて四国征伐の大軍勢の前に元親は屈することになりました。いったいどんな経緯があったのでしょうか。

四国統一へ!織田信長と同盟を結ぶ

土佐統一を果たすと、元親の目は四国全体に向けられ、阿波(徳島県)や讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)へと侵攻を開始します。

阿波や讃岐には、少し前に全盛時代にあった三好氏がいたのですが、彼らは織田信長に敗れて勢力を縮小していました。元親は、正室同士が斎藤氏出身だったこともあり、信長と同盟を結び、侵攻への足掛かりとしたのです。信長からは「四国は切り取り次第」とのお墨付きをもらっていました。「切り取り次第」とは、攻め取った土地はすべて自分のものにできるという意味です。

こうして、元親はほぼ順調に阿波や讃岐を制圧し、四国統一ももはや秒読み…といったところでした。

ところが、そこで信長から思わぬストップがかかったのです。

家臣と領民のためを思えばこその、信長との対立

天下統一を目指す織田信長は、元親に対して急に手のひらを返し、「土佐と阿波の南半分のみ領有を認める」と言い出し、同盟ではなく臣従を命じてきました。

いくら信長の命令とはいえ、すんなりと受け入れがたい理不尽な命令でした。

それに、元親には、武将としての悲願ということとは別に、何としてでも四国を統一したい理由があったのです。

それは、家臣たちや領民たちのことでした。

家臣に恩賞を与え、その家族が不自由なく暮らすためには、土佐一国ではとても領地が足りないと元親は考えていたのです。侵攻を続ける上で加わる家臣もいましたからね。

また、元親の快進撃を支えていたのは、「一両具足(いちりょうぐそく)」と呼ばれる半農半兵の領民たちでした。彼らは普段は農民ですが、ひとたび戦となれば、具足(鎧)をまとって駆け付けたのです。彼らの存在こそが、元親の土佐統一、そして四国統一に向けての原動力でした。

豊臣秀吉に屈し、四国統一の夢は断たれる

家臣や領民を思うあまり、元親は信長と対立しました。ただ、相手はあの織田信長。すぐさま討伐軍を編成し、大軍が四国に差し向けられることとなりました。元親最大のピンチの到来でした。

しかしここで、本能寺の変が起きたのです。

信長が倒れたことで四国平定は中断され、元親はそのまま四国統一戦を続けることができました。天正13(1585)年には、ほぼ完成されていたと言われています。

ただ、次に実権を握った豊臣秀吉もまた、元親にとっては厄介な相手でした。やがて秀吉による四国征伐が開始され、10万を超える大軍が四国に押し寄せたのです。

これにはなすすべもなく、元親は降伏しました。そして、秀吉からは土佐一国のみの領有を許され、秀吉の軍門に降ることとなったのです。

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