【文学】明治文学の金字塔・尾崎紅葉『金色夜叉』こんなにひどいシーンだったの!?その意味とは
令和の私たちが解せない、貫一とお宮のロマンスの真実とは
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『金色夜叉』を現代人の我々が読むときに引っかかる違和感、それは女性の描き方です。貫一に粘着する満枝にしろ、お金の事情で富豪に嫁ぐこととなったヒロインお宮にしても、どんなに乱暴に扱われDV同然の暴力を振るわれても、貫一に想いを寄せ続けます。こうして描かれるのはフェミニズムだったりジェンダーだったりの問題を超えた部分があると筆者は考えました。さて、『金色夜叉』の真実とは?
恋は常に勝つことができない?近代日本の結婚事情
二葉亭四迷『浮雲』森鴎外『舞姫』夏目漱石においては『三四郎』『門』『こころ』など……明治期に入ってから日本近代文学は、近代的恋愛を描く試みを行いました。それ以前の「恋愛」というと「心中もの」の歌舞伎や浄瑠璃など、恋に生き恋に破れて命を落とす男女の、哀れな物語が大衆にウケていたのです。
で、これらの作品をお読みになった方はもうピンと来ている通り、この時期の文学、常に恋は敗れる運命にあります。「家」や「社会」との相克の物語であり、金つまり「甲斐性」VS純粋な感情すなわち「愛」の対決という構図が多いのです。大抵において、お金のない若い青年が美貌の娘を手放すことになる……そんなあらすじがメジャーでした。
実際、お金によって恋を破られるのが社会にとっての普通、一般常識。まあしかたないよね、で済ませても良い話を、絶対に譲らずに1人の人への感情を貫く。それは近代的自由意志、権利の行使という言い方もできるでしょう。貫一お宮の恋は、旧時代への挑戦といえるロマンだったのかもしれません。
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恋愛至上主義と自由礼賛の物語?
お宮を失った貫一は、失意のうちに、あてつけのように高利貸に身を落とします。お宮は表向き、夫・富山の良妻として振る舞いながら、夜の営みを拒否し貫一に対し「貞節」を尽くそうと努力するのです。2人は歪んだ形で恋をずっと抱き続けています。お前たち、大人になれよと言うのは簡単です。しかしここまで情熱を持って愛し合うことを、当時の人びとはどのように感じていたのでしょう?
恋に生き恋に死ぬのは、「役」に生き「役」に死ぬ、そんなレールを敷かれた明治の人びとにとって憧れの生き方だったのかもしれません。それこそ演歌の世界で、だれかにとられるくらいなら貴方を殺したい、という熱い感情をぶつけあう自由を、明治の人は夢見たのではないでしょうか。
その後の貫一とお宮は、一体どのような人生を送ったのでしょう?構成も伏線もすべてが曖昧なまま、物語は作者・尾崎紅葉の死によって永久に完結されない運命を得てしまいました。残念なことです。
痛めつけられても傍にいたい?昔風の男と女の情念話
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血が出てアザが残り着物が破けるほどに、女の子をボコボコにした貫一。観光名所の像がまさかこんなエグい話であったとは。しかし貫一も周囲も、お宮ちゃんになんの謝罪も無しかい!配偶者間暴力が文化だった当時だからといって、許されることではないと思うのですが……あなたのモノとして扱われたいの、と演歌のような情緒なのでしょうか。それもまた、恋。
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