ドイツナチスドイツヨーロッパの歴史

【史上最大の大戦争】ドイツとソ連の戦争「独ソ戦(東部戦線)」について解説

独ソ不可侵条約とポーランド侵攻

1939年8月、この月なんと不倶戴天の敵であるはずだったドイツとソ連が不可侵条約を締結。不可侵条約とは要するに「お互いの領土に侵攻することはありませんよ」という条約であり、この条約はドイツとソ連の対立を考えていたイギリスとフランス、そして日本に対して多大な衝撃を受けることになります。

ヒトラー自身はソ連と不可侵条約を結びたくはなかったとは思いますが、政府内ではこのまま領土を拡張していたらイギリスとフランスが黙っちゃいないと考え、そして最悪の場合第一次世界大戦と同じくソ連とイギリス・フランスの間で二面作戦になる恐れがあります。

そこでドイツは東側とある程度仲良くして、なんとか二面作戦は避けようと考えていました。

一方のソ連側もこの時最高指導者であったスターリンによる赤軍大粛清が行われており、軍が著しく弱体化していたのです。そのためドイツが攻めてくればとんでもないことが起こると考え、ドイツと条約を結んである程度時間稼ぎをしようと考えていました。また、イギリスがドイツに譲歩しているのをみてイギリスとドイツが手を組んでいると考えたことから条約を結んだということもありました。

ちなみに、この時決められた内容の一つにポーランドの2分割、バルト三国のソ連の領国化の黙認などが含まれており、要するに他国の土地に関して勝手に決めていたのです。

兎にも角にも条約を結んだドイツとソ連。そしてついにドイツは1939年9月にポーランドに侵攻を開始。これ以上看過のできないイギリスとフランスはドイツに対して宣戦布告。第二次世界大戦が始まったのです。

国境が決定する両国

こうしてポーランドに侵攻し始めたドイツでしたが、この時ドイツは電撃作戦といって飛行機と戦車を使って一気に敵を叩き潰す作戦をとり、一気にポーランドの首都であるワルシャワを占領。ソ連も条約の規定通りポーランド東部に侵攻しその地域を占領しました。

さらにソ連はバルト三国にも侵攻。またフィンランドとも戦争を行い(冬戦争)苦戦はしたものの、カレリアなど一部の地域を割譲することに成功しました。

一方の西ではドイツ御自慢の戦車部隊による電撃戦によってオランダ・ベルギーと共に攻められフランスは全く歯が立たず、ドイツ軍はパリを占領。休戦協定が結ばれてフランスの領土の5分の3をドイツ領土に、残りの領地にペタン元帥率いるヴィジーフランスを建国して西方戦線はドイツ軍の大勝利に幕を閉じました。

さらにドイツは残りのヨーロッパの国であるイギリスにも攻撃を開始(バトルオブブリテン)。しかし、これはチャーチル首相率いるイギリス軍の粘り強い抵抗によって頓挫。ヒトラーはついに政権を握る前から考えていたソ連に対する戦争に本腰を入れ始めることになるのです。

バルバロッサ作戦

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ヒトラーは同盟国であるイタリアの侵攻助けながら1941年の前半期を過ごしていくことになりますが、これまで東方の安定を確実なものとしていた独ソ不可侵条約を破棄。6月22日には大量のドイツ軍がソ連に侵攻。

この越境のことをかつて神聖ローマ帝国の皇帝となり、ドイツ民族の誇りであったフィードリッヒ1世のあだ名を使いバルバロッサ作戦と言います。

フランスをあっさり撃破したドイツの装甲師団はソ連の国土を攻め入ると粛清でまだ混乱が溶けていない赤軍を圧倒。わずか1ヶ月でロシア第二の都市レニングラードを包囲。さらにクリミア半島の中心地であるスモレンスクを占領。赤軍は分断されて50万の捕虜を出しながらじりじりと後退。さらにキエフ・ハリコフなどが陥落され9月に入るとついに首都であるモスクワの30キロ近くに戦線を持ってきてモスクワ占領作戦がついに実行。しかし、ここでドイツ軍に思わぬ事態が訪れることになりました。

冬将軍の到来と膠着

こうして9月にモスクワ近郊まで戦線を持ってきたドイツ軍でしたが、ソ連という国は北の大国。かつてあのナポレオンすら敗北に追いやったロシアの冬将軍がついに訪れることになります。さらに、1941年は例年より早く寒波がやってきたこともあり快進撃を続けてきたドイツ軍の戦線はあっさり膠着状態に追い込まれることになります。

まさしく1812年のナポレオンのような状態となったナチスドイツの軍勢はモスクワを目の前にして止まることになりました。

そして次に目指す地点はソ連南方のコーカサスへと移り変わっていくことになるのです。

スターリングラード攻防戦と世界大戦への変貌

独ソ戦の開始によって、共通の敵を持ったイギリスは英ソ軍事同盟を締結。これまで共産主義のことを敵視していたイギリスやチャーチルにとってこのことはイギリスの孤立をイギリスにとって大きな転換でした。

さらに1941年12月には日本がアメリカに宣戦布告したことによってドイツは日独伊三国同盟に伴って自動的に宣戦布告を行うことに。

こうして独ソ戦はアメリカやイギリスを巻き込む一大戦争へと変貌を遂げていったのです。

一方のドイツはどうだったのかというとモスクワの攻略に手こずったことによって戦法を転換。

比較的に裕福であったコーカサスの地帯を占領してバグーの石油をかっさらいこれを戦争継続のための基点としようというものでした。

ドイツは破竹の勢いでウクライナやコーカサス地帯を手に入れますが、そんな最中立ちふさがったのがスターリングラードという土地。

今ではボルゴグラードと呼ばれていますが、この地域はスターリンの名前が冠されているため絶対死守せよという命令がソ連から出されており、ドイツからしてもこのスターリンの名前が冠された都市を占領することが悲願でもあったのです。

勢力の逆転

ドイツ軍はスターリングラードを圧倒的な火砲と戦車によって完全に包囲。9月中旬から市内への突入を開始してスターリングラードの攻略を開始しました。それに対してソ連軍は工場や団地の建物に潜み抵抗を開始。

しかし、市街戦は街が入り組んでおり戦車は行動の自由がきかずソ連のゲリラ戦法によってドイツ軍は苦戦。スターリングラードはほとんど占領したのですが、これ以上の侵攻は不可能だと判断してここにとどまることにしました。

しかし、11月になるとソ連軍はドイツ軍を逆に包囲を開始。ドイツ軍は撤退を考えますが、ヒトラーは「現地を死守せよ」と命令したことによってドイツ軍は弾薬が底をつき、ドイツ軍司令官はヒトラーの命令に反抗してソ連軍に対して降伏。ドイツ軍は独ソ戦初めての全面的降伏となったこのスターリングラード攻防戦はここからの独ソ戦を大きく変えることになるのでした。

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