室町時代戦国時代日本の歴史

主の寵愛を一身に集めながらも恩を仇で返した「陶晴賢」どんな運命をたどったのか

意欲を失った主君とだんだん疎遠に

跡継ぎを失った義隆は、ここから急に人が変わったように意欲を失ってしまいます。軍事面には興味を示さなくなり、元から好きだった和歌など芸事に熱中するようになってしまったのです。京都から公家を招き、毎日のように宴を開いて和歌を詠みまくった結果、文化的には非常に成熟して周防は「西の京都」と呼ばれるほどになりましたが、晴賢ら武断派の不満は蓄積する一方でした。

そして台頭してきたのが文治派でした。内政一切を義隆から丸投げされた文治派たちはどんどん勢いを増し、武断派との対立を深めていったのです。義隆も文治派を重用するようになったおかげで、若かりし頃の寵愛は嘘のように、晴賢とは疎遠になってしまいました。

主君への不信が内紛へと発展

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意欲を失った主・義隆と疎遠になっていく晴賢は、同時に義隆が重用する文治派の面々とは険悪な関係になっていきます。それがついには暗殺沙汰などの内紛に発展してしまい、晴賢は大内氏の中で窮地に立たされることとなるのです。

文治派との対立

文治派の筆頭・相良武任(さがらたけとう)は、武断派筆頭の晴賢とはどうしてもそりが合いませんでした。はじめは互いが気に入らない程度のものでしたが、やがて亀裂は大きくなり、特に武断派が相良を目の仇にするようになってしまいます。このため、相良は身の危険を感じて隠居してしまいました。

これで義隆も少しは元に戻ってくれるだろうとの期待を抱いた晴賢ですが、義隆は彼の思いとは裏腹に、再び相良を召し出したのです。

これには晴賢も深い失望を覚えました。そして、この頃から、晴賢は主君・義隆の殺害を考えるようになっていったとも言われています。それを見抜いた重臣もいたようなのですが、晴賢を危険視する進言に対し、義隆は何の注意も払うことはありませんでした。

密かに謀反を決意する

天文19(1550)年、晴賢は相良武任の暗殺を企てますが、すぐに相良に察知され、義隆に訴えられてしまいました。このため、義隆からの信頼を完全に失ってしまいます。

一方で相良は何とか晴賢の敵意を自分から逸らそうと、娘との縁談などを持ちかけますが、晴賢は取り合いませんでした。そして相良はまたしても大内氏から出奔してしまうのです。

晴賢と相良の一連のいざこざは、晴賢が謀反を起こすとまことしやかにささやかれるようになりました。それを危惧した義隆の側近が、義隆に晴賢の誅殺を申し出たほどだったのです。

こんな状況でしたが、相変わらず義隆は晴賢に対して何ら措置を取ることはありませんでした。疎遠になったとはいえ、晴賢のかつての忠誠を覚えており、疑うことがなかったのかもしれません。

しかし、一方の晴賢はそうではありませんでした。側近たちの予想通り、彼はすでに謀反を着々と準備していたのです。彼はげすでに毛利氏に書状を送り、「義隆を廃して息子の義尊(よしたか)に跡を継がせたい」という思いを告げていたのでした。

主と一触即発状態に

武断派の晴賢からすれば、戦もせずに政治は文治派に丸投げ、自身は公家と遊興にふけっている義隆は、かつての勇ましい姿からは程遠く、自分の活躍する場もなくなると考えたのでしょう。そのため、義尊を擁立してかつての武の大内氏を取り戻そうと考えたのかもしれません。

しかし、こうした晴賢の動きによって噂にどんどん尾ひれがつき、ついに義隆は晴賢を呼んで詰問したのです。この後、晴賢は居城の若山城(山口県周南市)にこもり、お家の行事にも顔を出さなくなってしまいました。また、義隆の方でも晴賢をいっそう警戒し、武装しはじめたため、両者の間にはとうとう決定的な亀裂が生じてしまったのです。

下剋上を果たしてから転落まで

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主君・大内義隆との間に修復し難い亀裂を生じさせた晴賢は、ついに挙兵し、義隆を自害に追い込みました。そして傀儡政権を誕生させ、自身が実権を握ったのです。しかし、晴賢の直情的な性格が災いし、家臣を死なせてしまうなど、明らかな自滅の道を辿っていくこととなります。そして彼は、最後の戦場となる毛利氏との厳島の戦いに臨むこととなるのです。

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