ついに挙兵!「大寧寺の変」
天文20(1551)年、ついに晴賢は挙兵し、謀反を現実のものとします。しかし義隆の対応は遅く、なかなか逃げようともしなかったそうです。
ようやく事態が切迫していることに気付いた義隆ですが、時すでに遅し。彼のもとに集まった兵は、晴賢のそれに比べれば微々たる数でした。
そして、大寧寺(たいねいじ/山口県長門市)に追いつめられた義隆は自害。嫡子の義尊は捕らえられて殺され、義隆の取り巻きだった公家たちも惨殺されてしまいました。当然、晴賢と敵対した相良武任も殺されています。
こうして晴賢の下剋上は成功を収めました。彼は北九州の大友氏から、かつて義隆の猶子となっていたことがある大内義長(おおうちよしなが)を迎えて家督を継がせると、自身が実権を握ったのです。
徐々に狂い始める歯車
義長を傀儡とした晴賢は、周辺への軍事行動を開始しました。
しかし、大寧寺の変で義隆に味方した一族の内紛につけこんで勢力拡大を図り、凄惨な暗殺劇を指示するなど、時折残忍なところを見せる晴賢の悪い一面が出てしまうと、彼のやり方に対して反発する者が現れてしまったのです。
もちろん晴賢はその勢力を制圧に向かいましたが、その隙を、大内氏の傘下から外れた毛利氏に狙われ、安芸(広島県)にあった大内氏の城は軒並み奪われてしまいました。
また、信頼する腹心に毛利氏へ内通の噂があると聞きつけると、たいして調べもせずに誅殺してしまうなど、猜疑心の強さをのぞかせています。実は、これは毛利方による策略だったのですが、すべてが晴賢にとって悪い方へと転がり始めていました。
厳島の戦いで大敗
毛利との関係が悪化していく中で、晴賢は毛利との直接対決に臨むことを決めました。
天文24(1555)年、厳島に2万を超える軍勢を引き連れて、晴賢は大内軍の大将として上陸します。一方、毛利方は5千ほどで、小さな隊に分かれて海上に潜んでいました。
数から見れば、圧倒的な兵力差です。しかし、晴賢の腹心・弘中隆兼(ひろなかたかかね)は、「これは狭い島に兵をおびきよせる毛利の策略です」と進言しました。
が、晴賢はそれを一笑に付し、退けてしまったのです。
決戦前夜は暴風雨でした。まさか毛利が攻めてくることはあるまいと、晴賢が油断していたその隙を、毛利軍は見逃しませんでした。
早朝、突如として背後から襲いかかってきた毛利軍に対し、狭い島の中で密集していた晴賢の軍勢は大混乱に陥り、総崩れとなったのです。脱出しようと船を奪い合い、溺れ死ぬ者まで出てしまいました。
逃げ場を失い、切腹を遂げる
歴史的大敗を喫した晴賢は、何とか海岸まで逃げおおせますが、海上にはすでに毛利方の船がひしめいており、完全に退路を断たれてしまいます。
運が尽きたことを悟った晴賢は、家臣に介錯をさせて切腹しました。
「西国無双の侍大将」と呼ばれ、大内氏に陶晴賢ありと名を轟かせた彼の生涯は、わずか35年という短いものでした。
壮絶をきわめた厳島の戦いで、島内は地面から厳島神社社殿に至るまで、大部分が血に染まったと言われています。
この戦いから数年後には晴賢の息子たちも戦の中で死を遂げ、陶氏は滅亡することとなりました。また、大内氏も急速に弱体化し、やがて戦国大名としての滅亡を迎え、中国地方は毛利氏のものとなっていくわけです。
西国無双の侍大将に欠けていたものとは?
晴賢の父・興房は、生前、晴賢の直情的なところを危ぶんでいたといいます。そしてまさに、父の危惧が現実のものとなったのでした。武将としては非常に有能だった晴賢ですが、周りに目を配るという点が少し欠けていたのかもしれません。そうした少しの欠点が身を滅ぼすことになるのが、戦国時代の常だったのです。生き抜くには本当に難しい時代でした。