「天理教」が教える、人が助け合って生きていく陽気ぐらしの理念とは?
ようこそおかえり【ぢば】
漢字では「地場」と書きます。読んで字の如く、「地元」とか「ふるさと」という意味になるでしょうか。
神が人間を創生し、宿した土地が「ぢば」なのであり、いわば人類の故郷ともいえる場所なのです。だから遠方から来た信者が泊まるための詰所には「ようこそおかえり」の文字が躍っているのですよ。
また、「ぢば」には参拝の目印ともなる「かんろだい」が建てられています。この台は高さ3メートル近い大きなもので、その周りでは、陽気ぐらしを祈念するための神楽「かぐらづとめ」が催されていますね。
身体は借りているもので、心は自分のもの【かしもの・かりもの】
天理教には輪廻転生の考え方があります。心だけが自分のものであって、身体は親神からの借り物(かりもの)だという考え方ですね。逆に親神からすれば、人間に身体を貸しているという意味になりますから「かしもの」なのです。
人間は借り物である身体を、貸し主である親神が思うように使うことが肝心だということで、おのおの勝手気ままな使い方をすれば、その身に守護を頂くことができなくなり、ついには不自由を味わうことにもなりかねないということですね。
そしていずれは身体を親神に返す時がやって来ます。人の死とはそういうことであり、天理教ではこれを「出直し」と表現していますね。そして再び身体を借りて、この世に帰ってくることを「生まれ変わり」と呼ぶのです。
「思うようにならんならんというは、かりものの証拠」
引用元 「おさしづ 明治21年7月28日」より
「人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理日々出る」
引用元 「おさしづ 明治22年2月14日」より
心の中に溜まった曇りや濁り【ほこり】
実際のホコリは、吹けば飛ぶような些細なものですが、徐々に溜まっていくとキレイにならず厄介なもの。人間の心も同じようなもので、親神の意に沿わない自分勝手な思いを抱いていると、やがて心は曇り濁って親神からの守護も頂けなくなってしまいます。
天理教が説くほこりとは、「をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」の八つ。これらの間違いを戒めることで、心はキレイになるということなのですね。
そして心がキレイになった状態のことを「神がほうき」と呼んでいます。
親神への感謝を表す貢献活動【ひのきしん】
「天理教教典」にはこう書いています。
「日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる」
親神からの恩恵を感じ、その感謝の思いを自らの態度や行為で示そうとする行いのことを「ひのきしん(日の寄進)」と呼んでいます。
「寄進」とは元来、お金や物品を神に納めて感謝の意を表すという意味になりますが、天理教では「神恩感謝」の心をもって奉仕活動を行うというところに特徴がありますね。
ですから決まったやり方やマニュアルなどはありませんし、清掃活動や各種ボランティア活動など、個人ができる範囲で良いのです。
ちなみに東日本大震災が起こった直後には、1万8千人もの「災害救助ひのきしん隊」が結成され、救援活動に取り組みました。
天理教への勧誘活動【にをいがけ】
実際の勧誘活動になりますが、「花の香りや良い匂いが周囲に広まって、人が自然に寄り集ってくるように」という意味があるとのこと。
どんな宗教活動にも「勧誘」という活動がありますし、大きい教団になればなるほど、運営のための資金が必要になるもの。ちょっとネガティブなイメージが付きまとうかも知れませんが、実際はそうなのです。
古くなった教会や詰所の建て替えなど、何億円もするような出費があった際に、おそらくは到底足りないこともあるでしょう。どこかの大教団のように壮麗華麗な施設とは言いませんが、それなりの建物を建てるべきなのでしょう。
嘘や欺瞞を用いて勧誘することはもってのほかですが、正しく教義を理解し、自発的な気持ちからお供えを出すのであれば、何の問題もないと筆者は考えています。
ちなみに筆者は、どこかの大教団からの勧誘はたまに受けることがありますが、天理教からの「にをいがけ」は受けたことがないですね。天理教のハッピを着た方が、拍子木を持って立っているのを見たくらいです。
天理教で気になることいろいろ
天理教といえば全国に教会もありますし、意外に認知度も高いです。高校野球甲子園大会の強豪校でもありますよね。そこで天理教について気になることを少しまとめてみました。