弟・義弘の独断専行が島津本家をピンチに
一方、義久の弟・義弘は上方におり、関ヶ原の戦いに参加してしまいます。しかも、彼に心酔する甥の豊久や家臣たちまでもが、本国から大坂へと向かってしまったのです。その上、彼らは成り行きとはいえ西軍に属してしまい、結果、東軍の敵陣を凄まじい勢いで突破して本国へと帰って来たのでした。
弟の勇猛さが天下に轟く戦いだったのですが、関ヶ原の戦いの結果は東軍の勝利。西軍に属した武将には厳しい処遇が下されることになって当然でした。
これではほぼ戦いに参加していない本国の島津氏にまで害が及んでしまう…とはいえ、弟が重罪に処されるのをみすみす見ているわけにはいかないと考えた義久は、まずは戻ってきた義弘を蟄居(ちっきょ/家に閉じこもり外出を控えること)させました。
そして、東軍を主導し次の天下人となることが既定路線となった徳川家康に対しては、「あれは弟が独断でやったことで、島津本家は何のかかわりもない」と、あくまでしらを切り通したのです。講和交渉を2年もかけて行い、徐々に島津有利に進めさせたその上で養子の忠恒を上洛させて謝罪し、結果、島津本家には何の咎めもなく、蟄居した義弘にも処分は下されなかったのでした。義久の交渉術が実を結んだ結果となったのです。
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晩年は弟や養子と仲が悪かったのか?
慶長7(1602)年、義久は忠恒に家督を譲り隠居の身となりますが、影響力は依然として持ち続けました。義弘も健在だったため、島津氏は「三殿体制」という異例の状況が続いたのです。
晩年、この三者には不仲の噂が立ちました。というのも、忠恒は義久の娘を娶って養子となっていたのですが、夫婦仲が悪かったのです。このため、義弘との仲もぎくしゃくしたのではないかと言われていました。
ただ、こんな逸話も残されています。
義久の館を義弘と忠恒が訪れ、長い間出てこないということがありました。不仲の噂を知っていた家臣たちは、もしや斬り合いにでも発展しているのでは…と気を揉んだそうですが、よくよく耳をそばだててみると、中からは楽しげな笑い声が聞こえてきたそうで、ほっと胸をなでおろしたとか。逸話ではありますが、事実もこうであったと思いたいですね。
そして慶長16(1611)年、激動の九州を生き抜いた義久は、79歳の生涯を終えたのでした。
島津氏を九州の雄に仕立て上げた名君
家臣が誤って立ち入り禁止の義久の狩場で狩りをしてしまった時、義久は、家臣が落としていった笠を拾うと、名前を消して返してやったそうです。人の上に立つのにまず必要な度量の広さを、彼は十分に持ち合わせていたのですね。だからこそ、島津の兵たちは主のために命を投げ出すことをいとわない精兵となったのです。個性豊かな兄弟と家臣団をまとめ上げた島津義久こそ、戦国時代で最もバランス感覚のある名君だったのではないでしょうか。そして、島津氏は薩摩藩主として明治時代にまで続き、討幕の主人公となっていくのです。
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