三国時代・三国志中国の歴史

西楚の覇王「項羽」の生涯について元予備校講師がわかりやすく解説

垓下の戦いと四面楚歌

両軍がにらみ合った状態の中、劉邦は項羽に講和を持ち掛けます。両国の国境を定めることと項羽が劉邦の父や妻を解放することで講和が成立しました。

ところが、劉邦は東へと戻る項羽軍を後方から急襲します。項羽軍は、一度は劉邦軍を打ち破りますが、各地から援軍を得て強大化する劉邦軍の前に次第に追い詰められました。

垓下に布陣した項羽軍は食糧が不足し、士気も低下しています。垓下を包囲した漢の劉邦軍は一斉に楚の歌を歌い始めました。しばらく聞いていない故郷の歌を聞いた項羽は「漢は既に楚を占領してしまったのか。包囲軍に、なんと楚人が多いことか」と嘆いたといいます。

その後、項羽は陣幕で酒を飲み、愛する虞美人の前で「抜山蓋世」の詩を歌いました。「力は山を抜き、気は世を覆う。時、利あらず、騅ゆかず。騅のゆかざるを奈何にすべき。虞や、虞や、若を奈何せん」。気力は十分なのに、時世が不利となって愛馬の騅も動かない。愛する虞美人よ、お前をどうしたらよいだろう。項羽の嘆きが伝わってくる歌ですね。

項羽、最後の突撃

四面から聞こえる楚の歌は項羽軍の戦意を大きくくじき、多数の兵士が脱走しました。抜山蓋世の詩を歌い、虞美人と最後の時を過ごした項羽は残されたわずか数百の手勢とともに漢軍に突撃します。

漢軍の包囲を突破したときには、項羽の手勢は28騎となっていました。追撃してきた漢の騎兵隊に対して、項羽は手勢を3つに分けて突撃を行います。それでも、わずか数騎を失っただけでした。

項羽は部下に「これでわかるだろう。自分の能力がなくて負けるのではない。天が自分を滅ぼすのだ」といったといいます。項羽は騎兵の追撃をかわして長江までたどり着きました。

地元の役人が項羽に舟を提供しようと申し出たとき、項羽は「自分に従った8,000人の若者を死なせて、何の面目があって江東に帰れるだろうか」といって申し出を辞退します。追っ手に囲まれると、項羽は自ら首をはねて自害しました。

自分の能力を頼みすぎた覇王項羽は、天下を得ることが出来なかった

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戦争においては抜群の強さを誇り、連戦連勝を続けた項羽。しかし、項羽は他人を信用し任せると言うことが苦手でした。また、感情の起伏や愛憎が激しく、自分に逆らうものに容赦しません。そのため、項羽は恐れられることはあっても慕われることは少なかったのかもしれません。

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