安土桃山時代日本の歴史

「本能寺の変」はなぜ起きた?信長の死・日本史最大のミステリーをわかりやすく解説

天正10年5月29日:信長・本能寺に入る

信長は安土城を出て上洛、京都の本能寺に入ります。

上洛の目的ははっきりしていないようですが、茶器や茶道具を運ばせていたとの記録も。京都で茶会を開く予定だったとの見方もあります。天下統一を目前に、有識者や著名人を招いて人脈を広げようとしていたのかもしれません。

信長はこのころ、千利休とも交流があったと伝わっています。茶道具や茶会を通じて、社交界とのつながりを模索していたのでしょう。

本能寺は現在も京都市内にありますが、本能寺の変の舞台となった本能寺は、今より少し違う場所にありました。寺といってもかなり敷地は広く、周囲に堀や土塁があり、ちょっとしたお城のような大規模な寺院だったのだそうです。また、本能寺の僧侶の中には、朝廷に近しい者もいたと伝わっています。

天正10年6月1日:「敵は本能寺にあり」

明智光秀は1万3000の兵を率いて丹波を出発。このとき光秀は、家臣たちを集めて会議を開き、何かを相談しています。すでにこの時、本能寺攻めを重臣たちに告げていたのかもしれません。

しかし光秀はこの時突然、信長を討つことを宣言します。

「敵は本能寺にあり!」本当にそう叫んだかどうかわかりませんが、兵は進路を変え、一路本能寺を目指すことになるのです。

家臣たちはどんなことを思ったのでしょう。光秀を止めたり諫めたりした者がいたとは伝わっていませんので、一致団結、信長を討つべきと思ったのでしょうか。

兵のほとんどは、信長ではなく家康を討つと思っていた、との説もあるそうです。

6月1日の夜中から2日の明け方にかけて、光秀軍はひそかに京都の町中へと歩を進めます。

天正10年6月2日早朝:光秀・京都本能寺へ突入

京都の夜が白々と明け始めたころ、光秀軍は四方から一気に本能寺敷地内になだれ込みます。

信長をはじめ、家臣たちもみんな寝姿。丸腰です。しかも、敵襲(家臣ですが)などまったく想定していませんでした。何が起きたのかわからないまま右往左往。周囲は大騒ぎとなります。

近くの寺に留まっていた信長の息子信忠も、この騒ぎを聞きつけ本能寺に駆け付けました。そこで、燃え盛る寺を目の当たりにします。

実はこの炎、寝込みを襲われた信長が家臣の森蘭丸に命じて火をつけさせたといわれているのです。

信長は弓矢と槍で応戦。やがて館の奥へ移動し、切腹したと伝わっています。

光秀軍は信長の遺体を探して館中を見て回ったそうですが、信長の遺体は見つからなかったそうです。

所説あり!?光秀はなぜ本能寺を襲ったのか?

もっとも有力なのが、遺恨説です。しかし、本当に蹴られたとかののしられたかについては、確かなことはわかっていません。信長自身が、光秀の悪口など書き残していれば話は別ですが、討ち入りするほど信長を恨んでいたかどうか、後世の創作などによって尾ひれがついてしまっている可能性もあり、はっきりしたことがわからないのです。

光秀自身が、天下統一の野望を抱いていた、という可能性もあります。光秀にも武将としての才能がありましたので、信長よりうまくやれる……という自負があったかもしれません。

あるいは、誰か黒幕がいた、という説も考えられます。その場合は誰か?信長に一番近い存在であった羽柴秀吉が光秀をそそのかしたのか、あるいは、直前に安土城の接待でひと悶着あった徳川家康か。家康なら、光秀と少々談合する時間をとることもできたかもしれません。

さらに、信長をよく思わない者、鬱陶しいと感じている者たちの存在も気になります。例えば室町幕府足利将軍家。信長さえいなければ……そんな思いもあったでしょう。もう一つ忘れてはならないのが朝廷。天皇に近い存在の誰かが、信長のことを邪魔だと考えて、光秀を差し向けて排除をもくろんだ可能性もあります。

しかし、どれもみんな推測の域を出ない話。確かなことはわかりません。

歴史の中で、最もたくさんの「○○説」が囁かれている出来事、といってもよさそうです。

この謎が解明される日は来るのか?「本能寺の変はなぜ起こった?」

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戦国時代を扱った小説や時代劇は数多く作られているので、もう「光秀は信長にいじめられて、たまりかねて本能寺を襲った」というイメージが頭の中で出来上がってしまっています。そのせいか、ほかの説を聞かされると「うーん、確かに」とついつい心奪われてしまうのも事実。光秀が信長の亡骸を見つけきれなかったというのも気になります。本能寺の謎が解き明かされる日は来るのでしょうか。

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