日本の歴史江戸時代

精巧な日本地図を徒歩で作り上げた男「伊能忠敬」その生涯とは?

江戸から北海道まではどれくらい?遥かなる測量の旅へ

現代なら、東京から北海道まで誰でも自由に行き来することができますが、江戸時代はそういうわけにはいきませんでした。江戸の町を歩き回って測量するのとはわけが違います。何か理由がなければ、他の藩と行き来することも許されない時代です。

そのころ、蝦夷地ではロシアの力が強まってきており、日本側でも蝦夷地の地形や詳しい調査を行う必要性が出てきていました。

高橋至時はこの状況に乗っかろうと画策。蝦夷地の地図作成をかって出ます。陸路で蝦夷まで移動しながら緯度の測量もしてしまおうと、一石二鳥を狙ったもの。担当者は伊能忠敬。彼の正確な測量技術や、佐原村時代の事業家としての事績などを評価したものと思われます。

幕府の許可を得るまでには時間がかかりました。この時はまだ、幕府は忠敬のことをそれほど重要視してはいなかったものと思われます。寛政12年(1800年)4月、ようやく幕府からの正式な命令が下り、忠敬はようやく、深川の自宅から蝦夷地へと出発するのです。

努力の人・伊能忠敬:日本全国ぐるっと測量の旅へ!

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やがて正確な日本地図を作り上げ、後世に名を残すことになる伊能忠敬。その第一歩は江戸から北海道までの道のり。蝦夷地の測量と地図作成のほかに、蝦夷地までの測量を正確に行うことで地球の子午線(縦方向の円周)を図るための基礎データを収集することも目的のひとつとなっていました。これから17年間、決して若いとは言えない体で日本中を歩き、測量を続けた伊能忠敬のその後の様子を追いかけます。

第一次測量:180日間ぐるっと3200㎞・北海道の地図完成

富岡八幡宮を参拝し旅の無事を祈願した伊能忠敬。寛政12年(1800年)4月19日、弟子3人とともに江戸を出発し一路蝦夷を目指します。忠敬は五十五歳になっていました。

あまり期待されていなかったせいか、幕府から認められた持ち物はごく最小限のもの。それでも忠敬は測量をしながら北上を続けます。1日40㎞ほど移動を続け、21日後に津軽半島に到達。数日間、天候の様子を見ながら船を待ち、ようやく蝦夷地へ渡ります。

当時の蝦夷地には、まだまだ未開の地がたくさんありました。少ない装備で道なき道をひたすら進み、3か月近くかけて蝦夷地東南側の海岸線の測量を続けます。

蝦夷地での測量を終え、再び津軽半島へ渡ったのが9月18日。そこから再び江戸を目指して東北地方を南へ移動し、10月21日、無事に江戸へ到着。江戸を出発してから180日もの日数が経過していました。

蝦夷から戻った忠敬は、収集したデータをもとに蝦夷地に地図の作成に取り掛かります。地図は12月には完成。忠敬はこの測量にかかった費用のうち、かなりの金額を自腹負担していたとか。幕府から支給された手当は、その半分にも満たない金額だったとも伝わっています。

第二次測量:測量方法を工夫し本州東海岸を測量

さして期待されない状態で始まった計画でしたが、出来上がった蝦夷の地図の評価は大変高いものでした。評判が評判を呼び、忠敬のもとに第二次測量計画の依頼が届きます。

当初は再度蝦夷地を回る予定でしたが、測量の仕方などで有識者と考えが合わず、今回は蝦夷地ではなく、本州の測量を行うことに。江戸を南下して三浦半島、相模湾を経由し、伊豆半島を下田へ。いったん江戸にもどってから房総半島から銚子方面、さらに北上を続けるという過酷なものでした。

蝦夷から戻って1年も経たない享和元年(1801年)4月、忠敬は江戸を出発。今回は、最初の蝦夷地測量の時に比べると、多少理解が得られた模様で、手当も少し増え、行く先々の役所や村人たちの協力を得ることも可能になっていたようです。

測量には、歩測だけでなく、間縄や鉄鎖、方位磁石といった道具を使って行いました。海岸線に棒を立て、縄をはわせて測点間の長さを図る方法。磁石で方位を確認しながら少しずつ測量するという、気の遠くなるような作業が積み重ねられていきます。

波が荒く平地の少ない伊豆半島海岸線では、測量にかなり苦労したようです。

2か月ほどで伊豆から江戸に戻った忠敬一行は、数日後、今度は房総半島を目指して出発します。3か月ほどかけて太平洋側の海岸線を北上し、下北半島へ。折り返して内陸側を南下し、同年12月に江戸へ到着します。今回の測量には230日の日数がかかりました。

第三次~第十次測量までおよそ17年間・移動距離約4万キロ

このようにして、忠敬が測量し作成した地図は高い評価を得ていきました。さらに、当初の目標であった子午線の緯度の値についても、少しずつ正確な値に近づきつつあったようです。ただ、緯度については、まだ師匠の高橋至時の評価を得るには至っていませんでした。

時にほかの有識者や学者たちと意見の衝突を見せながらも、忠敬は少しずつ海岸線の測量を続け、東北、蝦夷地、北陸、東海、近畿、中国、四国、九州、種子島や屋久島に至るまで、およそ17年間の間に日本各地の海岸線をコツコツと歩き続けます。その距離なんと4万㎞超え。地球の子午線の長さを超える距離を測量。最後の第十次測量では江戸の街道を中心に詳細な測量を慣行します。最後の測量は文化13年(1816年)10月まで。この時、忠敬は七十一歳になっていました。

こうして収集した膨大なデータをもとに、忠敬は日本地図の作成に没頭します。弟子たちをまとめ、作業の指揮をとってはいましたが疲労困憊。床につくことが多くなっていました。

文政元年(1818年)4月13日、伊能忠敬は弟子たちに看取られ、七十四歳でこの世を去ります。

地図の完成を見届けることはできませんでしたが、彼の意思を継いだ高橋景保(至時の子)と弟子たちによって偉業は成し遂げられ、文政4年(1821年)、忠敬の地図が完成。『大日本沿海輿地全図』と名付けられた地図は「伊能図」とも呼ばれ、驚異的な精度を誇る地図として後世に語り継がれることとなるのです。

海岸線をコツコツ歩いてひたすら測量!偉業を成し遂げた伊能忠敬の生涯

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千葉県香取市にある伊能忠敬記念館で『大日本沿海輿地全図』を見たとき、その迫力に度肝を抜かれた記憶があります。まず地図を見てその正確さに驚き、どうやって書いたのか、どうやって調べたのか、プロセスを知りたくなりました。百聞は一見に如かずです。ぜひ機会がありましたら、記念館で地図を見てみてください。井上ひさしの小説「四千万歩の男」もおススメです。

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