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斎藤道三、織田信長の居城「岐阜城」歴史に名を遺した城の歴史を元予備校講師が解説

関ヶ原の戦いの前哨戦となった岐阜城の戦い

1598年、天下人豊臣秀吉が死去すると自らの権力を拡大させようとする徳川家康と豊臣体制維持をはかる石田三成の対立が深まりました。1600年、徳川家康は自らに従わない会津の上杉景勝を討伐するため諸大名を引き連れて大坂を出発。会津を目指しました。

家康が会津の手前まで到着したとき、石田三成は毛利輝元を盟主として反家康の兵を挙げます。岐阜城主織田秀信は三成率いる西軍に加担しました。三成は岐阜城から大垣城を防衛ラインとして家康を食い止め、東の上杉景勝との間で挟み撃ちを展開しようとします。

小山評定で東軍の結束を固めた家康は福島正則池田輝政らを先発させ濃尾平野に展開させました。福島と池田はかねてから不仲で、この戦いでも互いに先陣を譲りません。

それでも、東軍きっての猛将である二人は岐阜城を果敢に攻め立てます。その結果、織田秀信は岐阜城本丸まで追い詰められ降伏を余儀なくされました。岐阜城はわずか1日の攻防で陥落してしまいます。

岐阜城の廃城と昭和の復興天守

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関ヶ原の戦いの後、徳川家康は岐阜城を廃城としました。岐阜城にあった建物や石垣は他の城に転用されます。昭和になり、各地で天守閣復興の動きが盛り上がると、岐阜でも岐阜城天守を再建しようという動きが見られました。現在ある天守閣は昭和に作られた復興天守です。金華山上から濃尾平野を見下ろした織田信長の気持ちを追体験するために、金華山上の岐阜城を訪れて見るのもいいですね。

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