中国の歴史

中国史上最大の成り上がりにして独裁者「朱元璋(洪武帝)」の生涯について解説

文字の獄と空印事件

洪武帝は農民には優しい人でしたが、やはり農民生まれだったこともあってか役人のことを心底嫌っていたのでしょう。

洪武帝は農民から身を起こして皇帝になるまで連れ添ってくれた功臣たちを粛清していくようになります。1381年、洪武帝は文字の獄という大粛清を行なっていくことになりました。

文字の獄というのは簡単に説明するとNGワードを言ったら粛清されるといったもの。洪武帝は最初は僧侶としての乞食同然の生活していたことがあり、このことをすごい気にしていました。そのため皇帝に見せる書類に僧侶のことを思い出す恐れがある「禿」「僧」や僧に発音が似ている「生」などを使えば殺されるというとんでもない自体が起こってしまいました。

また、文字の獄から一年後である1382年には空印事件が起こって文書作成のためにあらかじめハンコを押した用紙を用意した役人に対して死刑を宣告。これに対して説得した功臣も追放されることになりました。

しかし、このような粛清はまだ序の口であったのです。

大粛清の嵐

洪武帝は自分が徐々に歳をとっていくと自身の後継者となるであろう朱標に安心して家督を継いでもらうために彼の地位を及ぼしかねない功臣たちをさらに粛清していきます。

その第一弾が1375年に巻き起こる胡惟庸の獄という大粛清でした。

この事件は政府の中でも偉い位置にいた胡惟庸という人が劉基という家臣を毒殺したという根も葉もない噂がきっかけで起こった粛清で、これによってこれまで細々と行われてきた功臣の大粛清がエスカレートしていくようになります。1382年には洪武帝が生涯愛し続けた妻である馬皇后が亡くなり、唯一なんとかできるストッパーがついにいなくなる事態となったのです。胡惟庸は隣国日本に通じたという容疑もかけられ流刑となり翌年に死去。

自分の寿命が近づいたことを覚悟してなんとか無事に皇太子朱標にバトンタッチ出来るようにこの大粛清では文字の獄をよりもはるかに超える3万人以上が犠牲になったと言われています。

しかし、1392年には唯一の頼りであった皇太子の朱標がなんと早世。洪武帝は慌てて朱標の長男であるの朱允炆を次期皇帝として据えることとなるのですが、息子ですら気にかけているというのに孫になるとさらに心配になるのが祖父の思い。

せっかく収まりかけた粛清の嵐は幼い後継者に代わったことで再び巻き上がるようになってしまい、1393年には藍玉が謀反を起こしたとして一族もろとも殺される藍玉の獄という疑獄事件が勃発。先の胡惟庸の獄と合わせて胡藍事件と言われるこの大騒動によって明の功臣はほとんどが粛清される結果となりました。

洪武帝はそれでも粛清を辞めることはせず、自分が崩御する間際まで功臣を殺し続け、1398年に年にひっそりと71歳で崩御。農民から身を起こして明を建国した洪武帝は最期は誰を信じて良いのかわからず孤独に死んでいくというとても悲しいものであったと言われています。

朱元璋から学ぶ色々なこと

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朱元璋は貧民から皇帝に上り詰めましたが、そこから先は家臣を大粛清したりするなどかなり暴走気味の皇帝として名が残されるようになりました。

彼は下克上したからこそし人を信じられなくなってしまいましたが、彼がいたからこそ270年間明は中国の王朝として君臨することができたのです。

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