室町時代戦国時代日本の歴史

一代で中国地方八カ国の太守にまで上りつめた「毛利元就」をわかりやすく解説

毛利両川体制の確立

1544年、元就は三男の徳寿丸を小早川家の分家である竹原小早川家に養子に出しました。元服後、徳寿丸は小早川隆景を名乗ります。

本家当主の小早川正平が月山富田城の戦いで戦死したため、小早川本家は幼少の繫平が跡を継ぎました。しかし、幼少の当主に不安を抱いた家臣らは分家の隆景に本家を継いでほしいと考えます。小早川家の家臣たちの要望や大内家・毛利家の圧力などもあり繁平は当主の座を隆景に譲り出家しました。

1547年、吉川家の内紛に乗じて元就は次男の元春を吉川家の養子に出します。元就は吉川興経を強制的に隠居させ、元春に吉川家の家督を相続させました。その後、元就は前当主の興経と子の千法師を殺害。後顧の憂いを絶っています。

安芸国の有力国人である小早川家と吉川家を制した元就は勢力をさらに拡大。吉川元春は山陰地方を中心に活動、小早川隆景は山陽地方を中心に活躍し毛利本家を支えました。これを毛利両川といいます。

大内・尼子の両勢力を打倒し、中国地方八カ国の太守へ

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小早川家と吉川家に息子たちを送り込み、着実に安芸国での勢力を拡大する毛利元就。その存在は大内家や重臣の陶晴賢にとって無視できないものとなります。ついに、毛利家と大内家の陶晴賢は厳島の戦いで激突。元就は陶晴賢に勝利し、完全に自立した勢力となりました。大内氏を滅ぼしたのち、かつて苦杯をなめさせられた尼子氏の月山富田城を攻撃し攻め落とします。こうして、元就は一代で中国地方の覇者にのし上がりました。

厳島の戦いで陶晴賢を打ち破る

1550年、元就は毛利家中で当主を軽んじる振る舞いの多かった井上一族の主だったものを粛清。家臣団の統制を図ります。そのころ、大内家では政治に関心を失った大内義隆と重臣陶晴賢の争いが激しくなっていました。

1551年、陶晴賢は大内義隆を殺害。元就は混乱に乗じて安芸での勢力を拡大します。陶晴賢は、元就に安芸・備後の国人衆を束ねる権限を与えますが、元就の勢力拡大に危機感を持った晴賢はこの権利を取り上げようとしました。

反発した元就は晴賢と対立。1555年、陶晴賢は30,000の兵をひきいて安芸に攻め込みます。晴賢は厳島に元就がつくらせた宮尾城に攻めかかりました。

元就は村上水軍の協力を得て晴賢の陣を奇襲。狭い場所に密集していた陶軍は数の有利を活かせず、混乱状態に陥りました。陶晴賢は厳島からの脱出を図りますが、脱出するための船を見つけることができません。ついに、観念した晴賢は切腹して果てます。

大内氏を滅ぼした防長攻略戦

陶晴賢が切腹し、軍の主力も失った大内家には動揺が広がっていました。元就は大内方の武将たちに調略を仕掛けます。元就の調略は図に当たり、大内方の武将たちが次々と毛利川に寝返ってきました。

安芸から周防にかけて勢力を拡大する毛利方に対し、大内義長も軍勢を繰り出しますが敗退。しだいに追い詰められていきました。

元就は大内氏との争いに九州北部の大友宗麟が介入するのを防ぐため、大友氏が九州北部にある大内氏の領土を確保することを容認します。

1557年になると、大内氏の内部崩壊が進み、毛利方に寝返るものが相次ぎました。家臣たちに見限られ、直属の軍勢のみとなった大内義長は且山城に立てこもります。

完全に包囲され万事休した大内軍は毛利軍に投降。義長は降伏して功山寺に入りましたが、毛利の圧力で自刃に追い込まれます。こうして、名門の大内氏は滅亡してしまいました。

月山富田城を攻め落とし、尼子氏を滅ぼす

1560年、尼子晴久(詮久が改名)が急死し尼子義久があとを継ぎます。当主の急死によって動揺する尼子氏の様子を見て、元就は尼子攻略に着手。1562年、元就は出雲に攻め込み尼子氏の本拠である月山富田城を包囲します。

包囲の当初、元就は尼子方の兵士が投降しようとしても許しません。尼子方の兵粮を減らすための元就の作戦だったのでしょう。今回は、かつての月山富田城攻防戦での失敗を踏まえ、毛利軍は強攻しませんでした。そのうち、城内では食料が乏しくなります。

苦境に立たされた尼子軍に対し、元就は尼子方の重臣の宇山久兼が内通しているとの情報を流し、義久に宇山久兼を殺害させることに成功。味方を殺してしまった義久は急速に人望を失います。

食料が底を付き、尼子軍の結束が乱れるのを見て、ようやく城兵の投降を許しました。尼子義久は味方がなだれを打って元就に下るのを阻止することができません。1566年11月、尼子義久は元就の軍門に下りました。こうして、元就は中国地方最大の勢力として君臨します。

元就の死と毛利両川体制の崩壊

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1571年、元就は75歳でこの世を去ります。嫡男の隆元は既に死去していたため、家督は孫の輝元が継ぎました。吉川元春と小早川隆景は3本の矢の説話のように毛利本家を支えます。時代が下って1600年、関ヶ原の戦いでは吉川広家は徳川家康に内応。小早川秀秋は東軍に寝返って、本家の輝元の意向に必ずしも従いませんでした。毛利本家と両川の結束が崩れ、毛利氏は関ヶ原後に領土を大きく削減されてしまいます。

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