フランスフランス革命

「フランス革命」はなぜ起きた?背景からその後の動きまで徹底解説!

変革はつらいよ~混乱するフランス共和政治と革命戦争

日本の明治維新でも同じような動きがみられましたが、新しい政治体制を整えるということは、ものすごくたくさんの物事を決めていかなければなりません。暴動を起こすだけが革命ではない。地道な議論や事務作業の積み重ねが肝要です。

フランス革命もまたしかり。長年3つに分かれていた身分を平等する、と言葉で言うのは簡単ですが、これは容易なことではありません。いろいろな考え方の人がいます。同じ平民議員たちの間でも派閥ができ、対立関係ができてしまうこともあったようです。

1792年4月、ジロンド派という派閥が革命を推し進めるため、ルイ16世の地位の保証を呼びかけたオーストリアなどを相手に宣戦布告。フランス革命戦争が勃発します。

フランス軍にとって戦局は芳しくありませんでした。その一因が、マリー・アントワネットをはじめとする国王一家がオーストリアに情報を流していたためではないか、とフランス民衆は再び激怒。国王一家は幽閉、王権は停止されます。

この革命戦争で義勇兵が歌っていた歌「ラ・マルセイエーズ」が後のフランス国歌に。フランス軍はこの後息を吹き返し、敵を国境外へ押し戻すことに成功します。

共和制の成立とマリー・アントワネットの処刑

1792年9月、王政は完全に廃止され、国民公会が招集されます。富裕層でも貧しくも、成人男子全員に選挙権が与えられ、選挙によって議員が選出されることになったのです。

共和政府は、ルイ16世の裁判を行います。革命戦争のときにオーストリアと内通しフランス国民を裏切っていた証拠が次々と見つかり、事態の収拾は不可能。1793年1月21日、現在のコンコルド広場で、2万人を超える聴衆が集まり、ルイ16世のギロチン処刑を見届けました。

フランス国内では革命の炎が燃え続けていましたが、諸外国の反応は複雑。革命の勢いに嫌悪を抱く国もあったと伝わっています。

国外のことにも対応しなければいけませんし、国内の政策や法律も整備しなければなりません。やらなければいけないことが山積み。しかもどれも待ったなしで順番をつけてはいられない状況。革命戦争で台頭したはずのジロンド派は政策の遅れから下層市民の反感を買い、革命家として名高いマクシミリアン・ロベスピエール率いるジャコバン派が頭角を現します。

ジャコバン派はどんどん政策を推し進める一方でどんどん反対勢力をギロチンにかけるなど、かなり過激。物事はどんどん進んでいきますが、当然敵も作ります。

そんな中、1793年10月、マリー・アントワネットの裁判が行われました。結果は初めから決まっていたといわれています。秋の晴れた日に、かつて栄華を極めた元フランス王妃は自分を憎む国民たちに見届けられながらギロチン台へと向かっていったのです。

フランス革命のその後~共和政治の先に見えたものとは

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このようにして、ルイ16世とマリー・アントワネットを前後して、フランスは大きく変わっていきました。しかし新しいフランス政府は決して一枚岩ではなく、革命は一夜にしてならず。新しい国づくりは問題山積です。権力を持ちすぎたジャコバン派は恐怖政治ともいわれる体制をしいていましたが、これが長く続くわけもなく、まだしばらく混沌の日々が続くことに。時代はある英雄の誕生を待つことになります。続きを覗いてみましょう。

ジャコバン派独裁政治の失墜とナポレオンの登場

ブルボン朝を倒して民主国家を誕生させたはずなのに、どういうわけか独裁政治が続いています。今度は王様ではなく、革命を成し遂げた同志たち。ジャコバン派は強硬に物事を推し進め続け、民衆の支持と信頼は失墜していました。

1794年7月27日、議会に出席したロベスピエールを始めとする数人が身柄を拘束されます。議会ではその場で、ロベスピエールらの逮捕が可決。ロベスピエールを含む22名が翌日28日、ギロチンで処刑されます。

身分の違いを取り払い、平等な社会を作ろうと奔走した革命家の最期がギロチン台とは、なんとも皮肉なものです。

ロベスピエールの処刑後、敵を一掃する、などといった過激な革命運動は鎮まり、フランス政府は落ち着きを見せたかに見えました。しかし最終的に、フランスはナポレオン・ボナパルトによる統治を選びます。フランス革命によって誕生した共和政治は、ナポレオンの独裁政治に取って代わられ、およそ10年という短い期間で幕を下ろしたのです。

そして現代へ:フランス革命ゆかりの地を巡る

フランス革命から200年以上の時が流れた現在、パリの街中には、当時の様子をしのぶことができるスポットがたくさん残されています。

まず、1789年7月14日に襲撃されたバスティーユ牢獄。建物は取り壊されていますが、現在はバスティーユ広場という広場。中央には、ナポレオン失脚の後復活したブルボン朝を再び倒した「7月革命」の記念塔が建っています。

ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑場となったコンコルド広場(当時は革命広場と呼ばれていた)は、以前は「ルイ15世広場」と呼ばれていて、ルイ15世の騎馬像がおかれていたのだそうです。もちろん革命の際にそんな像は取り除かれ、フランス革命を象徴する場所に。現在では大きなモニュメントがそびえる街のランドマーク広場となっていて、ギロチン台の痕跡は見られません。

フランス革命の資料を見るなら、カルナヴァレ博物館がおすすめです。古代から現代にいたるまで、パリの歴史を細かく知ることができる落ち着いた雰囲気の博物館。マリー・アントワネットの私物なども一部保管されており、貴重な品々を見学することが可能です。

自由・平等・博愛~激動のフランス革命がもたらしたものとは

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歴史に「たら」「れば」は禁物ですが、でももし、あのときルイ16世が逃亡しなかったら、フランス革命はどうなっていたのだろうと、ふとそんなことを考えました。おしゃれで洗練された都市というイメージが強いフランス・パリですが、200年ほど前にこんな激しい出来事があったなんて、今では想像もつきません。革命記念日にあたる7月14日にはパレードや音楽祭などイベントがたくさん行われるのだそうです。激動の時代を乗り越えて華の都となったフランス・パリ。機会があったら是非、行ってみたいと思います。

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