太宰治の名作『走れメロス』。あらすじや解釈のポイントについて解説!
#1 元ネタは古代ギリシャの伝説
By H.A.Guerber – The story of Greeks, パブリック・ドメイン, Link
『走れメロス』の一番最後に、「(古伝説と、シルレルの詩から)」という記述があります。この古伝説というのは、古代ギリシャの伝説。哲学者・ピタゴラスによって組織された「ピタゴラス教団」に関するお話です。ピタゴラス教団に属するフィンティアスという人物が、ディオニュシオス2世への陰謀の疑いで、処刑を言い渡されます。(処刑するというのは、実はフィンティアスの反応をうかがうための茶番劇だそう)身辺整理のための時間が欲しいフィンティアスは、こちらもピタゴラス教団に属する友人ダモンを保証人(身代わりのようなもの)に。処刑を言い渡した側の人々は、「どうせフィンティアスは帰ってこない」とダモンを嘲笑いました。しかし日が沈むギリギリにフィンティアスは戻ってきて、彼らに感動をあたえます。ディオニュシオス2世もこの友情をみて、仲間に入れてほしいと頼むのでした。フィンティアスがメロスに当たり、ダモンがセリヌンティウスに当たりますね。ディオニュシオス2世に当たるのはディオニス王です。伝説が何度かにわたって別の作家によって著されていくなかで、彼らの名前がモイロスとセリヌンティオスと変更されました。ヨーロッパでは今でもダモンとフィンティアスの名前の方が有名だそうです。
一方シルレルの詩、というのは、フリードリヒ・フォン・シラー(1759~1805年)の詩「人質」のことを指しています。ベートーヴェンの『交響曲第9番』(いわゆる第九、歓喜の歌とも)の合唱部の詩は、シラーのものなんですよ。とても有名なドイツの詩人です。この「人質」にも、上記のようなギリシアの古伝説が書かれています。
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#2 『ごんぎつね』の作者も同じ元ネタで書いていた
古代ギリシャにおける、友人を身代わりとして預けてちゃんと定刻に戻ってくるという伝説。これを日本で翻案したのは、実は太宰治だけではありませんでした。『ごんぎつね』というお話を、知っている方は多いと思います。こちらの作者、鈴木三重吉も古代ギリシャ友情の物語を執筆していました。タイトルは『デイモンとピシアス』。ダモンとフィンティアスの別の言い方ですね。もちろん王も、ディオニシアスという名で登場します。読んでみると、『走れメロス』とくらべて王の描写が詳しく、デイモンとピシアスがピタゴラス派であったという設定が残っているな、といった印象でした。これは『走れメロス』より少し昔の、1920年に初出した作品です。
さらに、『真の知己』というタイトルで高等小学校の教科書に載っていたお話。これも古代ギリシャの友情の物語でした。太宰は子供のころにこの教科書を使っていたので、きっと影響を受けていたのでしょう。後年はこの『真の知己』に代わって、『走れメロス』が教科書に載るようになります。
#3 ディオニス王という存在
この物語は、メロスとセリヌンティウスという男の、友情のお話であることは間違いないと思います。対して、『走れメロス』やそれと元を同じくする物語にほぼかならず登場する、もう一人の象徴的な存在。それがディオニス王でしょう。彼は暴君であり、メロスを処刑しようとしていますし、いわゆる悪役という立ち位置であると思います。しかし、人を信じることができない、という考えに限っていえば、誰しもが持ち得てしまうかもしれないものではないでしょうか。もちろん人の心を信じることは大切なことですが、一度疑うことをはじめてしまうと、なかなか信じ切るのは難しいことですよね。
ディオニス王の改心、というのは物語のなかでかなり大事な役割を果たしています。メロスが時間通りにセリヌンティウスの元へたどり着いても、王が彼らの友情を見て心変わりをしなければ、メロスは処刑されてしまう可能性が高かったでしょう。(感動した民衆がそれを許さない可能性もありますが、それはそれで別の物語になってしまいます)ディオニス王はもう一人の主人公……とは言わないまでも、『走れメロス』のキーマンと言える存在だと思います。
#4 メロスはずっと走っていたわけではない
『走れメロス』の物語をなんとなく思い返したとして、私は物語中メロスがずっと走っていたかのようなイメージが浮かんできます。しかし、メロスと言えど人間ですから、何度か迷いを感じたり、諦めかけたりをしているのです。
メロスが迷いを感じたシーンで、二度、個人的に印象的なシーンがあります。まず一つ目が、結婚式の祝宴のさなか、「このままここにいたい」と願うシーン。メロスはそれをよしとせず、ちゃんと出発を心に決めましたが、雨が小降りになるまで一眠りしよう、と少しでも村にとどまろうとしていました。そして、二つ目が精魂使い果たして倒れてしまうシーンです。ここでは本当にメロスも諦めかけていました。しかし、泉から湧く水を飲むことによって回復し、再び走り出すことができたメロス。偶然そこにあった泉。この泉がなければおそらくメロスは諦めてしまっていたのでしょうから、これはかなり重要な舞台装置です。「苦難のなかに偶然あらわれる泉」というとご都合主義にも感じられますが、「助け」というのは意外とふっと湧いてくるものであり、それに気付くか気付かないかというのが重要なのではないでしょうか。
#5 「もっと恐ろしく大きいもの」とは?
セリヌンティウスの弟子・フィロストラトスにもう間に合わないから走るのをやめるように言われたメロス。それに対してメロスは、「間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ」と答えます。この、「もっと恐ろしく大きいもの」とはなんでしょうか。作中でそれが何か、はっきりと述べられているわけではないので、いくつか考えられるものをあげてみます。
たとえば、「友情」。セリヌンティウスとの友情のために走っている、ということでも意味は通りそうな気はします。実際それも大きな要因ではあるでしょう。しかし、友情は「恐ろしい」とは言えないようにも思えますね。(ただ、この「恐ろしく」が規模の大きさをあらわすための語の可能性もあります)では、「王への反抗心」でしょうか。王はメロスが帰ってこないと思っており、その通りにならないようにしようとしている。そんな解釈もできるかもしれませんが、これは「大きいもの」……とは言えないような。そこで私は、もっと大勢の人間がかかわってくるのではないかと考えました。つまり、「世(ここではシラクス)の人々がメロスを信じる心」を指しているのではないかと思ったのです。メロスがセリヌンティウスとの友情のために、処刑を受け入れてでも帰ってくる。王様の圧政に苦しむシラクスの人々はそう願っていたのではないでしょうか。それは、王様が心変わりしなければ、「メロスは帰ってきて、処刑されるべき」と願っているのとも同じ。これなら、「恐ろしい」が言葉通りだったとしても当てはまると思います。あとは、「間に合わなくても、約束は守らなければならない」という解釈。「最後まで走った」という事実が重要なのです。どちらにせよ、メロスはスケールの大きな戦いをしているのですね。
太宰ならではの流れるような文章をほかの作品でも
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『走れメロス』という話の面白さを補強しているのは、太宰治の文章力。特に、疲れて倒れてしまってから泉を見つけるまでの流れるような文章は圧倒的です。『走れメロス』は文章量もそれほど多くなく、読みやすい作品。読んでみて太宰の魅力を感じられたら、ぜひほかの作品も読んでみてください。『人間失格』、『斜陽』、『津軽』などなど……。それぞれの作品ごとに味わいは違いますが、太宰ならではの文章がたっぷりと楽しめますよ。なお記事中の引用は、青空文庫(以下リンク)から行いました。
太宰治 走れメロス