日本の歴史昭和

東京大空襲の記憶~戦争の惨禍を繰り返さないために~

恐ろしい火災旋風が人々を襲う

多くの犠牲者を出した要因の一つとして挙げられるのが火災旋風と呼ばれるものでした。大規模火災でよく見られるもので、複数の火災が燃焼のための酸素を求めて空間へ広がり、上昇気流を伴いながら激しく渦を巻くという現象です。

火災旋風同士が一つに合わさって、さらに巨大な火災旋風となり、逃げ惑う人々を次々に飲み込んでいきました。また、延焼していない空間にある酸素ですら一気に取り込むため、たとえ火災現場から離れていたとしても酸欠で命を奪われてしまうという恐ろしいものなのです。このために広い空地へ逃げ込もうが、防空壕の中へ逃れようが、激しい燃焼温度のために呼吸器を損傷したり、酸欠で亡くなる人が多かったのはそのためなのでした。

爆撃していたB29は低高度を飛んでいたため、火災旋風の影響を受ける機体も少なくなく、また乗員は「人の焼ける臭い」をはっきりと感じたと証言しています。

午前2時37分、空襲警戒警報解除

After Bombing of Tokyo on March 1945 19450310.jpg
By 米軍撮影 – http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html, パブリック・ドメイン, Link

B29の大編隊が去り、ようやく空襲警戒警報は解除されましたが、火の勢いは留まるところを知らず、ようやく鎮火できたのは午前8時を過ぎてからでした。下町地域は一面焼け野原と化し、至る所に焼死体が散乱する有様だったそう。

特に火災旋風の高温で焼けただれた遺体の判別は難しく、ほとんど身元がわからない状態となっており、それが余計に犠牲者数の判別を困難にしていたのです。

多くの遺体は非常措置として都内各所の寺院や公園などに仮埋葬され、5日後にはその数は7万を超えました。遺体を遺族が引き取った場合や、東京湾へ流れ出した遺体、旋風で巻き上げられてバラバラになった遺体などを含めれば、10万人を超えるといわれています。

結果的に東京下町地域には1665トンもの焼夷弾が投下され、罹災家屋は約27万戸、死亡者約10万、罹災者は100万を越すという大惨事となりました。

東京大空襲の記憶と証言

image by PIXTA / 46861093

東京大空襲を体験された方が少なくなってきている昨今、やはりその鮮明な記憶は残していかなければならないでしょう。それが次の世代を担う人間の努めなのではないでしょうか。忘れてはならない悲惨な記憶の断片を紹介していきたいと思います。

空襲の炎の中を逃げ惑う人々

空襲は、「空襲警報だ!」っていう親父の声で起こされて気付きました。かなり深く寝ていたから。外に出たら、もうB29がゴーゴーと大きな爆音を立てて飛び回っていました。

焼夷弾はボンボーンと音を立てて地上に落下すると、青白い閃光を発して、シューシューと燃え広がりました。バケツの水で消そうとしたのだけど、数が多い上に、屋根瓦を突き破って天井裏で発火したのは手がつけられない。

引用元 産経新聞【戦後70年~大空襲・証言(1)】より

 

3月10日未明、私は激流のような火の粉をかきわけ、火のないところへ逃げました。火のないところは空からみると黒く見えるために米軍重爆撃機B29の標的になり、たちまち火の壁となりました。右往左往しながら、無我夢中でしたね。

引用元 全日本民医連「東京大空襲体験者早乙女勝元さんに聞く」より

東京大空襲の犠牲者たちを見た証言

でも、本当に空襲の恐ろしさを知ったのはその後でした。

誰も彼も髪の毛は焼け焦げてちりちりと丸まり、顔、身体すべてが黒くすすけています。衣服が残っている人はまだマシで、火の粉が衣服について燃えてしまったのか、背中や肩、胸にひどいやけどを負ってただれた皮膚が丸出しになっている人もいました。

おぶった子供が亡くなっていることに気付いていない母親もいっぱいです。首や手足がもげてしまっている子もいました。そうなると、背負っているのが子供なのか荷物なのか、もう私たちにはわかりません。

引用元 産経新聞【戦後70年~大空襲・証言(7)】より

 

道ばたに残された遺体は真っ黒に焼け焦げてしまっていて、かろうじて人の形をとどめているような状態だったから、丸太なのか人間なのか、ひと目では判断するのは難しかった。

目にしたのはいずれもうつぶせの遺体ばかりだったけれど、日に日にふやけて水ぶくれした遺体は、もとの2倍近くの大きさになっていくの。色も黄色く変色していって、人間とは信じがたかったわ。

引用元 産経新聞【戦後70年~大空襲・証言(11)】より

 

北千住から浅草橋まで歩きました。あたり一面、焼け野原で見通しがよく、鉄筋の松屋デパートの残骸だけが残っていました。途中、松屋デパートの脇の道も通りましたが、道路の両側に3列ぐらいで真っ黒に焼けたマネキンの様な人々(大人から子供)の遺骸が何百メートルと続いていました。
 
引用元 毎日新聞「千の証言」より

米軍側から見た東京大空襲

B-29s of the 462d Bomb Group West Field Tinian Mariana Islands 1945.jpg
By United States Army Air Force – United States Air Force Historical Research Agency – Maxwell AFB, Alabama from “History and Units of the United States Air Force”, G H J Sharrings, European Aviation Historical Society, 2004. Photo credit given as from USAFHRA., パブリック・ドメイン, Link

いっぽう、米軍側から見た東京大空襲はどうだったのでしょうか?「日本人を殺すことを目的とし、人間とは思っていなかった」と話す兵士も多かったようですが、人間の尊厳を踏みにじる卑劣な行為に、後年になって後悔し、良心の呵責を覚える人もまた多かったそうです。

 

小さなオレンジ色の炎が見えた。まるで火のついたマッチ棒を落としたようだった。地上に落ちた炎は所々で光り、次第に大きく広がり、火の海となった。

上空に立ちこめた灰色の煙はだんだんと真っ黒になり、地上の様子は見えなくなった。コックピット内にも煙が漏れ入ってきた。何とも言えぬ、ひどい臭いだった。

引用元 産経新聞【戦後70年~大空襲・証言(1)「ジェリー・イエリンの証言」】より

 

東京はもう信じられないほど燃えていました。本当にひどい状態でした。煙の臭いがしました。そして人や動物の肉が燃える臭いもしました。

私は日本人を人間だと考えたことはありませんでした。日本の軍人はとても残忍だという印象があったので、そう考えることで彼らを爆撃しやすくなりました。

地上は黒煙で覆われていました。火が荒れ狂っているようでしたが、よく見えません。しかし地上で恐ろしいことが起こっていることだけはよくわかりました。でもそれは任務でした。命令は遂行しなければいけません。私は空を飛ぶのが大好きです。でも人を殺すのは好きではない。

引用元 「東京を爆撃した兵士たち ~アメリカ軍パイロット60年後の証言~」より

 

爆弾を投下し、そのことで何かの思いに責め苛まれたとしよう。そんなときはきっと、何トンもの瓦礫がベッドに眠る子供のうえに崩れてきたとか、身体中を炎に包まれママ!ママ!」と泣き叫ぶ三歳の少女の悲しい視線を、一瞬思い浮かべてしまっているに違いない。正気を保ち、国家が君に希望する任務を全うしたのなら、そんなものは忘れることだ。

引用元 「戦略・東京大空爆-1945年3月10日の真実」より、ルメイの言葉

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明石則実