ハルノートの内容
1.日本はアメリカ・イギリス・ソ連・オランダ・中国・タイと不可侵条約を締結すること
2.日本は上記の国の間で経済的に平等な協定を締結し、フランスインドシナの不可侵条約を締結すること
3.中国とインドシナから日本軍は撤退すること
4.日本は蒋介石の中華民国以外の政権を認めないこと
5.日本は中国における租界と治外法権を放棄すること
6.最恵国待遇を含む日米の通商協定を結ぶこと
7.日米の経済制裁と資産の凍結を解除すること
8.円とドルの為替を安定させること
9.日独伊三国同盟を破棄すること
10.日米がこの協約を遵守すること
山本五十六の真珠湾攻撃計画
こうしてハルノートを突っぱねた日本。遂にやむなしとして12月1日に天皇の御前で開かれた御前会議にてアメリアとの戦争が決定となってしまいました。
この当時連合艦隊を率いていた山本五十六は1939年にアメリカとの戦争でどのような海戦が起こり、どうすれば勝てるのかというシュミレーションを行なっていたのですが、結論から言ってしまえば勝つことは不可能だっのです。
日本は資源が少ない上に、当時世界一の工業力を誇っていたアメリカが本気を出してしまえば勝てないと考えていたからでした。
それでもアメリカとの戦争が決まってしまいましたらどうにかしなければなりません。
そこで山本五十六は敵の艦隊をなるべく急速に叩き潰し、アメリカの戦意を喪失させて講和に持ち込もうとしたのです。民主主義ということを頼りに厭戦ムードになればアメリカであろうとも講和に持ち込んでくれるだろうと考えていましたが、そのためには味方の全勢力をつぎ込んでようやく敵戦艦5隻と空母2隻を沈める程度。さらに逆にアメリカの世論を刺激する恐れもありかなりの博打的な作戦でもあったのです。
しかし、山本五十六は確固たる信念を持ってこの作戦を押し切り、この作戦で進めていきます。こうして真珠湾の攻撃は着実に進められることとなったのでした。
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真珠湾攻撃の決行
By 不明 – Official U.S. Navy photograph 80-G-21218 from the U.S. Naval History and Heritage Command., パブリック・ドメイン, Link
1941年11月26日、この日択捉島に集結していた日本の空母6隻を中心とした機動部隊がハワイへと出航。まだこの時はアメリカとの戦争突入は決まっていませんでしたが、海軍はアメリカに悟られないように北方からハワイへと進軍していきました。
そして12月1日、日本政府より「ニイタカヤマノボレ一二◯八」という電報が届きます。当時台湾を領有していたこともあり日本の最高峰は台湾にある新高山でした。この電報はつまり12月8日に作戦決行。そしてアメリカとイギリスとの開戦を表していたのです。
真珠湾攻撃の成果
1941年12月8日午前1時30分、空母6隻を擁した日本の連合海軍は183機の攻撃機を発進。2時間後にはアメリカの海軍基地であった真珠湾を攻撃を開始。『トラ・トラ・トラ』という我奇襲ニ成功セリという有名な電報を送り日本側が奇襲攻撃を行うことができると発信したのでした。
この真珠湾攻撃ではアメリカの油断をついて急降下爆撃を行なったおかげでアメリカ海軍は大混乱。主力戦闘艦である戦艦4隻が沈没、4隻が損傷を受けその他の船にも被害を出し死傷者合わせて4300人を叩き出しました。
対して日本側の損失は54機の飛行機の損失と潜航艇の9名のみ。真珠湾攻撃は圧倒的な日本の勝利に幕を閉じたのでした。
真珠湾攻撃の最大のミス
真珠湾攻撃は日本の戦果で終わりましたが、実は二つのやってはいけないミスを日本軍は犯していました。この二つのミスがのちの日本に大打撃を与える原因となっていきますが、果たして日本はどんなミスを犯してしまったのでしょうか?
宣戦布告の遅れ
これは日本軍がこれまでの歴史上最大級のミスといっても過言ではないものでした。
真珠湾攻撃は11月26日に進撃を始めたのですが、日本側はアメリカに対する宣戦布告を真珠湾攻撃を行う1日前の12月7日にする予定でした。日本軍は「別に宣戦布告しなくても自衛戦争なんだからいいでしょ」と思っていたそうですが、昭和天皇は「絶対に宣戦布告を攻撃する前に行え!」といったそうで外務省はアメリカに向けて開戦通告の準備に取り掛かり始めたのです。
しかし、あろうことかこんな時に限って大使館に電報が届かないというトラブルが起こり最終的には15時間遅れてしまい、さらにはそれを解読するのに手間取ってしまったためアメリカに宣戦布告を行ったのは真珠湾攻撃の1時間後となってしまいました。