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チェコスロヴァキアに起きた「プラハの春」をチェコ事件と共にわかりやすく解説

ブレジネフ政権がプラハの春を軍事弾圧したチェコ事件

急速な民主化の進展に危機感を抱いたのがソ連です。ソ連ではアメリカへの弱腰などが批判されフルシチョフが失脚していました。フルシチョフの後を継いだのがブレジネフです。

ブレジネフはドプチェクによる「プラハの春」を、社会主義体制を覆そうとする危険な試みであると判断。ソ連などワルシャワ条約機構に加盟する5カ国の軍がチェコスロヴァキアに侵攻しました。

ワルシャワ条約機構軍は首都プラハを制圧。市民たちの激しい抗議の中、ドプチェクをソ連に連行しました。プラハの春を弾圧したワルシャワ条約機構軍による弾圧をチェコ事件といいます。

事件後、ブレジネフは社会主義陣営全体の利益のためには、一国の主権が制限されても仕方がないとする制限主権論を発表し、ソ連の姿勢を明らかにしました。以後、チェコスロヴァキアを含む東欧諸国での民主化要求は沈静化します。

 

冷戦終結後に訪れた本当のプラハの春

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ソ連が経済的に行き詰まり、ゴルバチョフによってペレストロイカが始められました。ゴルバチョフは東欧諸国との関係を対等なものとする新思考外交を展開します。ソ連の姿勢の変化により東欧では民主化要求が再燃。社会主義政権を根こそぎ打ち倒す東欧革命が起きました。民主化後、チェコスロヴァキアはチェコとスロヴァキアに分離します。

ゴルバチョフによるペレストロイカ

18年に渡ったブレジネフ政権は改革にとても慎重でした。そのため、ブレジネフ時代は安定したが停滞した時代と評されます。特権化した一部の高級共産党官僚による硬直した政治体制や経済運営のため、新しい技術の導入や新時代の経済への転換がうまくいかずソ連の経済成長が停滞しました。

ブレジネフが死去し、アンドロポフ、チェルネンコが短期間でこの世を去ったため、ゴルバチョフがソ連共産党の指導者となります。ゴルバチョフはソ連経済の立て直しを図るためペレストロイカとよばれる一連の改革を実行しました。

ゴルバチョフは硬直化した経済を立て直すため、部分的に市場経済を導入しようとしたのです。と同時に、ブレジネフが主張した制限主権論の放棄を宣言し、東欧諸国と対等な関係を築こうとしました。

社会主義政権が軒並み倒された東欧革命とチェコスロヴァキアのビロード革命

ゴルバチョフによる制限主権論の放棄を受け、東欧諸国では民主化の動きが一気に広がりました。1989年におきた東欧諸国での民主化などの諸改革を東欧革命といいます。

ハンガリーでは共産党以外の政党も認める複数政党制を実施。ポーランドではワレサを指導者とする「連帯」が合法化され、連帯による政権が誕生。ドイツではホネカーが書記長を解任され、ベルリンの壁が解放されます。

チェコスロヴァキアでも連日、民主化を要求するデモが繰り広げられました。ドイツのベルリンの壁解放などに刺激された市民や学生は共産党指導部の辞任などを要求します。

デモを抑えきれないと判断した共産党は政権を降り、ドプチェクやパヴェルを中心とする民主化勢力が政権を握りました。流血を伴わず政権交代が実現したこの変革を「ビロード革命」ともいいます。

チェコとスロヴァキアの分離

パヴェルらの活動により、チェコスロヴァキアは社会主義国から議会制民主主義の国家となりました。しかし、ボヘミア・モラビアを中心とする東部のチェコ人地域と、西部のスロヴァキア人地域は地理的・歴史的に大きく異なっています。

プラハを中心とするチェコ地方は平野に恵まれ農業生産力が高く、プラハ自体が中央でも屈指の工業都市でした。一方のスロヴァキア地方は農業国ではありますが、山地が多くチェコ地方ほど豊かではありません。

共産党支配から脱却したチェコ人とスロヴァキア人の中で民族主義が台頭すると、あまりに違う立場の両民族は連邦解消に向けて動き出しました。1993年、チェコ人とスロヴァキア人は連邦を解消。それぞれ、別の道を歩むことになります。

プラハの春はソ連によって弾圧されたが、冷戦終結後、プラハに本当の春がやってきた

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ドプチェクが主導したプラハの春は、ソ連などのワルシャワ条約機構軍の弾圧を受けて雲散霧消してしまいました。しかし、チェコスロヴァキアの人々の自由と民主主義への思いは消えることがありません。冷戦が崩壊し、ソ連の支配力が弱体化した時、かつてプラハの春を主導したドプチェクは、共産党による一党支配を終わらせるビロード革命を実現しました。プラハの春から21年後、プラハに本当の春が訪れたのです。

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