日本の歴史江戸時代

「天明の大飢饉」から学ぶ防災意識のあり方~過去の悲惨な歴史に学ぶ~

大飢饉の原因は、実は人災によるものだった

しかし、いくら飢饉だといっても天候不順が何年も続いただけで、死者が30万人も50万人も出るものなのでしょうか?実はそこには【人災】という防ごうとすれば防げたはずの致命的要因があったのです。

実は江戸時代も半ばを過ぎると、「商品経済」「貨幣経済」といわれる経済的インフラの大転換が起こりました。市場にはコメ以外にも様々な物品があふれ、コメの代わりに貨幣が流通することによって各都市の大商人が経済的イニシアティブを取ることになったのです。米本位制から依然として脱却できなかった諸藩は、このような経済の転換についていけずに大きな負債を抱えることになりました。

財政難にあえいでいた東北諸藩も例外ではなく、万一のためにと保管しておいた備蓄米ですら米価が高いうちに売り払い、負債の返済に充てていたのです。そうした時に大飢饉に襲われたのでした。

飢える者が続出しても、藩は備蓄米がないどころか救済に充てるための費用すら捻出できず、重商主義に陥った幕府は都市部の経済を最優先させるあまり、なんら有効な救済手段を取りません。仙台藩では農民どころか武士身分の者まで多く餓死してしまう有様だったそうです。

18世紀初頭から人口が増えない不思議

江戸時代に全国的な人口統計が行われたのは享保6年(1721年)だとされており、この時の日本の総人口は約2600万人でした。さかのぼって江戸時代初期の推定人口が約1250万人とされていますから、享保期までの100年間で人口が約2倍に増えたという計算になりますよね。

新田開発や農業技術の向上などが原因として挙げられますが、やはり人口増加を妨げる障害が存在していなかったことを意味しています。

しかし、享保以降の人口の推移はどうだったのか?天明の大飢饉の頃は約2500万人、江戸後期の文化文政の頃は再び2600万人、そして幕末~明治維新にかけてやっと約3000万人となっていますね。これは何を意味するものでしょうか?

人口増加を妨げる障害が確実にあったということを示すもので、いわば出生率と死亡率がほぼ変わらなかったということがいえるでしょう。人口減少の大きなファクターとなるものは、疫病、少子高齢化、戦災、飢餓など様々ありますが、江戸時代後期という時代は「飢餓」というワードが最もしっくりくるという感じがするのです。

享保の大飢饉、宝暦の大飢饉、天明の大飢饉、天保の大飢饉といった全国的な大凶作は、全て江戸時代後期に符合していますし、世界的な気候の変動期にも合致しています。それが人口の増減と完全に比例しているのが非常に不思議なところなのですね。

 

「天明3年前後は小氷期と呼ばれるグローバルな寒冷期で、世界的に火山活動が活発化したといわれており、それが気候 に与えた影響は無視できないだろう。大気循環パターンが平年と大きく異なっていたと推定される。

さらに、1783年はエルニーニョ年であった可能性が高いことから、世界的規模で気候異常が発生したものと考えられる。」

引用元 三上岳彦著「気候変動と飢饉の歴史」より抜粋

大飢饉に対して備えるべき対策

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天明の大飢饉に際して被害を受けた東北諸藩の間でも、実はほとんど餓死者が出なかった藩も実在していました。これだけの災害に遭いながら、なぜ民衆を救済できたのか?その謎を探っていくことにしましょう。また、大飢饉の痛手から早く復興するために知恵を絞った藩もありました。合わせてご紹介します。

備籾蔵を大量に設置することで大飢饉を乗り切った米沢藩

米沢藩は現在の山形県米沢市にあった藩で、日向高鍋藩から養子に来た上杉鷹山(治憲)が跡を継いでいました。鷹山は藩財政の建て直しに努め、自らが率先して倹約を行い、城下には多くの備籾蔵(そなえもみぐら)を設置しました。

これは武士層には知行100石につき二斗二升二合の備えをさせ、藩内すべての村に対して、男女一人につき籾一升の貯蓄を命じたのです。この政策は功を奏し、天明の大飢饉の際には最小限の被害でとどまっています。

天明の大飢饉での米沢藩は一人の餓死者も出さなかったという情報がネットを中心に流れていますが、これは間違いで、実際には天明3年~寛政元年までの6年間の人口減は4,868人となっていますので、少なからず餓死者は実在していたということでしょう。

その後徹底した対策が取られ、3万俵にも及ぶ米を備蓄する【20年計画】によって備籾蔵政策は完遂し、1833年の天保の大飢饉の際には一人の餓死者を出すこともありませんでした。

また、家臣の莅戸善政(のぞきよしまさ)に命じて作らせた書物「かてもの」の存在が大きいでしょう。これは救荒食(非常食)の手引書ともいわれるもので、食べられる野草や食料備蓄のことなどについて解説されています。

餓死者を一人も出さなかった庄内藩

庄内藩は現在の山形県鶴岡市に位置し、天明の大飢饉の頃は名君といわれた酒井忠徳が藩主でした。忠徳が藩主に就いた時、あまりの財政難で庄内へ帰るための旅費すら工面できなかったといいますから、忠徳があまりの情けなさに涙を流したという逸話が伝わっています。

財政改革に着手した忠徳は、豪商本間光丘を抜擢して政策を進めることに。まず藩財政を年間予算制として徹底した緊縮を行い、借財で困っている藩士には超低金利で金を貸し出して負債を整理させ、農民には低利融資と諸負担の全廃、さらには飢饉の際の救済策として備荒基金の設立などが行われました。

このため藩主に就任してから8年で1,500両もの剰余金を捻出することが可能となりました。天明の大飢饉の際にも、この備荒基金や備籾蔵の存在によって一人の餓死者を出すこともありませんでした。

その後も本間家は庄内藩を支え続け、戊辰戦争の際に庄内藩が無敵だったのも、本間家の莫大な財力があったおかげだといわれています。

コメだけに固執してしまった仙台藩

飢饉対策に失敗した例として仙台藩を挙げますが、仙台藩は表高62万石、実勢石高は100万石を超えるともいわれた大藩でした。なぜそんな大藩が失敗し、大量の餓死者を出すに至ったのでしょうか。

実は、米作単一の農業及び「買米、廻米政策」によって経済的基礎を築いた藩だったからです。コメだけに偏った経済政策は、米価が低迷すると、とたんに藩を深刻な財政難に陥らせ、凶作対策としての食糧備蓄を疎かにさせる危険性をはらんでいたのでした。

薩摩の砂糖や、阿波の藍など、地方に根ざした専売品を栽培させることで副収入としている藩も多い中、仙台藩はとにかくコメのみ。1782年に当時の出入司であった安倍清右衛門が、米価上昇を見込んで囲米を取り崩して売却してしまったことが仇になりました。

仙台藩では餓死者だけにとどまらず、疫病(腸チフスなど)が蔓延し、餓死者を出さなかった地域でも病死者は数多く発生したそうです。ある一定以上の収入があり、生活に困らなかった層であっても死者が多かったのはそのためでしょう。

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明石則実