日本の歴史

日本語が歴史的に成立したのはいつ頃?

邪馬台国の卑弥呼は日本語をしゃべったのか

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日本古代史の最大の謎は、邪馬台国がどこにあったかです。さまざまな意見が出され、機内説(最近は大和の纏向遺跡説など)と北九州説が対立している状況で、まだ決着はついていません。個人的には、当時の奈良盆地の人口は、1万人程度と言われ、そのような人口でこの日本列島を支配できたとはとても考えられないと思っています。

いずれにしても、卑弥呼の邪馬台国の時代は、すでに弥生時代に入って1,200年ほどが経っており、富の蓄積がかなり進んでいたことでしょう。そのような状況では、人口も相当に膨れ上がっていた可能性が高いのです。人口の少ない地域に邪馬台国の都があったとは考えられません。したがって、卑弥呼は、倭族語をしゃべっており、日本語をしゃべっていたとは考えにくいと言えるでしょう。

3世紀前半の中国の大乱が再び民族移動を引き起こした可能性

この3世紀前半と言われる時代は、中国大陸でも大きな動きがあった時期です。すなわち、三國志に描かれているように、後漢が滅んだ時期でした。この時期の中国の帳簿上の人口は2,900万人程度から半分以下まで減少しています。弥生時代が始まった時期と同じように大量の難民が発生して、朝鮮半島にも多くの避難民が押し寄せていた時期です。

その影響は日本列島にも及んでいました。恐らく、神武天皇の東征伝説が生まれた頃と一致しています。朝鮮半島南部にいた倭族が列島に押しやられたと考えられ、出雲王国とともに大和を目指したと考えられるのです。その結果が纏向遺跡だったと言えるでしょう。それは邪馬台国ではなかったはずです。

その当時には、北九州には別の倭族の王朝があったと考えられ、それこそ邪馬台国であった可能性が高いと言えます。その証拠に、日本書紀や古事記には、大和朝廷の九州征伐の話が何回もあり、6世紀には磐井の乱(いわいのらん)も起こっているのです。北九州には大和朝廷とは別の王国が6世紀まであったと考えられています。

大和朝廷の言葉は日本語だった可能性が高い

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ただし、神武天皇の即位以降の大和朝廷では、当時の縄文人王国であった出雲族と倭族の融合が進み、その中で日本語が成立したと考えられます。この時代には大陸からの渡来民もさらに増加し、古墳時代初期には日本列島の人口は、2百万人程度まで増加しているのです。縄文時代末期の人口は8万人であり、弥生中期でも59万人と言われています。縄文人だけでここまで増えることは考えにくく、多くの渡来民が縄文人と交流して人口を増やしていったと考えられるのです。

弥生時代以降は富と戦いの社会になり、言葉の融合も起こった

弥生時代の渡来民は、平和な縄文社会に稲作による富の蓄積とともに、それを守るための戦争という争いを持ち込みました。同時に彼らの言葉と縄文人の言葉の融合が進んだと言えるのです。出雲王国も縄文人と考えられますが、王国自体が富の蓄積の結果であり、武力による制圧があったことが考えられます。事実、日本書紀や古事記には、出雲の神の大国主命(おおくにぬしのみこと)には八千矛の神の異名があり、戦争をおこなって王国を築いたことを示しているのです。力によって言葉は統一されたとも言えます。

このようにして、倭族の言葉と縄文人の言葉が融合し、最終的に日本語となったと考えられますそれは、4世紀ころと考えれば良いでしょう。また、九州にあった王国も倭族の可能性が高く、大和朝廷の言葉としての日本語と近かったと考えられます。九州の倭族の王国も、九州の縄文人と倭族の言葉が融合していたと考えられるからです。

日本語がはっきりとわかるのは奈良時代の万葉集

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歴史上で、日本語が使われていたと思われる最初の手がかりは、万葉集に収められた和歌です。日本書紀や古事記は漢文で書かれています。しかし、万葉集は、万葉仮名と呼ばれる日本語を漢字の当て字で表現しているからです。最近、世界遺産に登録された仁徳天皇陵の古墳は世界最大規模の古墳として有名ですが、この仁徳天皇の皇后であった磐姫(いわのひめ)の和歌も万葉集には収録されています。日本書紀では、仁徳天皇が、山に登って民の家から煙が出ているのを見て、人々が豊かに暮らしていることを確認して安心したことが記されていました。

磐姫の『君が行(ゆ)き 日(け)長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ』という歌が収録されているのです。万葉集でも最古の歌とされており、夫の浮気に対する嫉妬の歌として歌われています。これは、古代の大和朝廷においては、確実に日本語が使われていたことを示しているのです。

中国の史書では漢文で日本語かどうかはわからない

中国の史書は、2,000年前から倭国(日本)から使者が来ていたことを掲載していますが、すべて漢文で表示されており、日本語が使われていた証拠はありません。恐らく、神武天皇が大和の橿原で即位した後から融合は起こったと考えられ、日本語の形成は4世紀に成立したと考えられるのです。

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