宗教改革を起こした「マルティン・ルター」とは?世界史にどう影響したの?神学や歴史の観点から解説
はじまった議論、既存社会への人びとの反抗(プロテスト)
もちろんカトリック教会からルターは破門されました。「教皇不可謬説」すなわち「教皇の言うことは神の言葉だから絶対正しい」という概念のもとでローマ教皇の方針を批判することは、信仰的にも政治的にも許されないことだったのです。
しかし時代は変わっていました。逃亡生活の中で聖書のドイツ語訳を完成させる他、精力的な活動を続けるルターにはたくさんの味方があらわれます。特にルターの唱える「聖書主義」は庶民にとって希望でした。たとえば教会に納める「教会税」の存在や、農民が領主に仕える義務などは聖書に書いていません。このルターの説を根拠にはじまったのが、ドイツ農民戦争です。ルターは当初農民側を支持していましたが、自らのパトロンとなっていた諸侯に対し過度な危害を加えるとして方針を転換することとなります。
ルターは神学者の一方で政治的視点も持ちあわせていました。キレイ事ではなく、信徒や信仰を守るためには権力が必要です。信仰・神学の問題は仮になんとか落ち着いたとしても、人びとを統率する教会のシステム構築や庇護者の獲得は急務でした。
目的のためには清濁あわせ呑みつつ、新しい教会を作り出す
ルターは生涯を通して思想・ことば・政治的行動の三拍子そろった理想的な活動家でした。ルターに味方するドイツ領邦諸侯の間に、自らの教理や典礼(儀式)に基づいた教会を作り上げます。「ルター派」と呼ばれるプロテスタント教派の、これがはじまりです。
ルターの改革の中で最も象徴的と言えるのが、牧師(カトリックの神父にあたる信仰指導者)の妻帯でしょう。キリスト教にとって性的欲望や罪ですが、結婚によってそのジレンマは解消することができます。ルターは15歳年下の元修道女と結婚、三男三女を設けました。
その他にも「聖書主義」の根幹をなすドイツ語聖書の完全翻訳(それまで聖書は難しいラテン語がメイン)を完成させるなど、ヨーロッパ史にとって巨大な存在であるルター。プロテスタントはその後神学的見解の相違からカルヴァン主義、聖公会など多くの教派に分裂します。この後カトリック内でも自らの悪い点を痛切に反省する動きが広がりました。信仰や政治の混乱からおびただしく犠牲が生まれ、果ては三十年のあいだ戦争が繰り広げられることとなるのですが……ルターはそれを見届けることなく1546年に亡くなったのです。
世界の光景を変えた言葉と思想と行いの人、マルティン・ルター
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政治家として神学者として、行動も言論も活発だったルター。この人がいなければ世界の風景は違ったものになっていたかもしれません。しかし宗教や信仰というと何も考えず信じるというイメージですが、すごく細かいこと考えてるんですね。今回、宗教改革にまつわる神学的問題も可能な限りわかりやすく解説してみました。ところでRintoには他にもカトリック・プロテスタント・正教会の違いなど、キリスト教関連の教養記事があります。ぜひご覧になってみてください!
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