陸遜を起用し、夷陵の戦いで劉備軍を撃退
関羽の訃報を聞き、蜀の皇帝を名乗っていた劉備は烈火のごとく怒ります。また、同じころもう一人の義弟張飛が配下に殺害され、犯人が呉に逃亡する事件が起きました。劉備の怒りは頂点に達し、大軍を率いて自ら呉に攻め込みます。
孫権は関羽討伐でも活躍した陸遜を総司令官に任命。呉の将軍たちは実戦経験が少ない陸遜になかなか従いませんでしたが、陸遜は辛抱強く指揮をつづけました。
陸遜は劉備軍の陣地を攻撃した時、陣地が火攻めに弱いこと看破します。陸遜は全軍に劉備軍の陣地に火攻めを行うよう命じました。案の定、劉備軍の陣営は各地で炎上。劉備は救援に駆け付けた趙雲の働きにより死地を脱し白帝城に逃れました。この戦いを夷陵の戦いといいます。こうして、呉軍は南荊州の支配権を確立しました。
合肥をめぐる魏との争い
孫権の敵は劉備だけではありません。北の曹操や曹丕も孫権にとって警戒すべき対象です。曹操や曹丕と孫権が争ったのは合肥でした。孫策が死去したころ、合肥は荒れ果てた空城でしたが、曹操に揚州刺史に任じられた劉馥は合肥を整備し曹操軍の一大拠点へと変貌させます。
合肥城は長江と淮河の間に位置する戦略上の重要地点だったため、孫権は合肥を占領すべく何度も攻めました。もっとも有名なのは215年に行われた合肥攻防戦です。
孫権は劉備との国境問題を安定化させたのち、10万の大軍を率いて合肥に迫りました。合肥の守将だった張遼・楽進・李典らは不仲でした。しかし、孫権の大軍の前に一致団結。張遼は800人で孫権軍を奇襲し出鼻をくじきます。結局、孫権軍は合肥攻略の糸口をつかむことができずに撤退しました。
その際、孫権は自ら最後尾を守りますが張遼・楽進らに追撃され、逍遥津の橋付近であわや命を落とす寸前まで追い詰められます。孫権は部下たちの必死の奮戦によってかろうじて逃れることができました。
孫権、皇帝に即位し三国鼎立なる。しかし、晩年は後継者選びに苦しんだ
荊州に攻め寄せた劉備率いる蜀軍を撃退し、合肥をめぐってたびたび曹操や曹丕の魏と争った孫権は、自らも呉の皇帝に即位します。三国志の英雄たちの中で際立って若かった孫権の治世は長期にわたりました。しかし、晩年には皇太子孫登が急死してしまい、孫権の後継者をめぐる争いが勃発。呉の国力を摩耗させてしまいます。
孫権の皇帝即位
220年、曹操が死去すると曹丕が跡を継ぎました。曹丕は後漢の献帝に対し皇帝の位を譲るよう迫ります。その結果、献帝は曹丕に皇帝位を禅譲。曹丕は魏の皇帝となりました。この知らせを聞いた劉備は蜀漢の皇帝に即位します。
その間、孫権はあえて皇帝に即位しませんでした。魏や蜀との外交を意識したためかもしれません。229年、孫権は群臣たちに推戴されるという形で呉の皇帝に即位しました。この時、蜀は孫権の即位を祝う使者を派遣し、夷陵の戦いの後で結ばれた蜀・呉同盟の継続を確認します。以後、孫権は基本的に蜀呉同盟を維持しつつ魏と対抗する外交戦略をとりました。
皇太子孫登の死と後継者をめぐる混乱
孫権には何人かの子供がいましたが、後継者とされたのは長男の孫登でした。王太子となった孫登は性格が優しく、友人たちに対してもあまり偉そうな振る舞いはしなかったと伝えられます。孫権の遠征中には留守を預かり、すぐれた統治をしたともいわれますが、241年に病のため33歳で死去しました。
将来を嘱望された孫登の死は呉の内紛の原因となります。孫登の死後、孫和が王太子とされました。しかし、孫和の異母弟である孫覇も魯王とされ孫和とほぼ同じ待遇をされます。これにより、家臣たちは孫和派と孫覇派にわかれて後継者争いを始めてしまいました。
争いは10年に及び、陸遜をはじめ多くの重臣が巻き込まれました。後継者争いが長期化したことにより、呉の国力は衰退してしまいます。