御用改めである!真夜中の激闘へ
よくよく考えてみれば、長州も会津も薩摩も、日本の将来のことを思っているわけで、ひざを交えて話し合うことができれば血が流れることもなかったはず。しかし当時の日本では、異なる藩の者同士が意見を交わしあうなど前例のないことでした。
開国、尊攘を叫びながらも、みんなどこかで「藩」というものに捉われてしまっていたのかもしれません。
1864年7月8日(元治元年6月5日)の夜が更けた頃、京都の町を見回りしていた新選組局長・近藤勇率いる一部隊が、三条大橋近くの旅籠・池田屋に潜伏中の尊王派の浪士を発見。突入します。
クーデーターの計画を協議中だった尊王派の浪士は、長州、肥後、土佐藩などおよそ20数名。奇襲をかけた新選組はわずか数名で、思わぬ苦戦を強いられたと伝わっています。突然始まった真夜中の大乱闘。やがて新選組の別働隊が到着し、双方ともに多くの死傷者が出る一大事となりました。
尊王派の浪士として活動していた肥後藩の宮部鼎蔵や長州藩の吉田稔麿など数名はその場で自刃。数名が新選組の刃に倒れ命を落とします。捕縛され投獄された者も、その多くは後に処刑されるか獄中死。こうして、池田屋の談合は新選組によって制圧されたのです。
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池田屋事件の影響は?
池田屋事件の後、新選組の名は京都に限らず全国に知れ渡ることになります。何せ、御所の焼き討ちや天皇誘拐計画を未然に防いだのです。
新選組とは、もともと、特定の藩の志士というわけではなく、京都の警護のために幕府が求人した浪人や町人の集まりで、言わば寄せ集め集団のようなものでした。発足当時は20名余りとこじんまりしており、名前も「壬生浪士組」と名乗っていましたが、次第に成果を上げ、100名以上の隊員を抱える大所帯に。名前も「新選組」と改め、次第に幅を利かせるようになっていきました。
そしてこの池田屋事件で、一気に株が上がります。
新選組による取り締まりは一層厳しさを増し、恐れられるようになっていきました。
一方の尊王派は、中核を担っていた有力者たちを数多く失ってしまいます。長州藩や土佐藩など、同士を失った者たちの憤りは言うまでもありません。特に長州藩では、多くの志士たちが決起し、挙兵の声が高まります。長州藩の中にも慎重意見を解く者が少なからずいましたが、池田屋事件の顛末を聞いた藩士たちの勢いを止めることはできません。
そしてついに、長州藩は京都へ出兵し、御所付近で戦闘が始まります(禁門の変・ 蛤御門の変)。ここから幕末・維新への動きは一気に加速していくのです。
どう違う?寺田屋事件・近江屋事件と比較
池田屋事件とは、京都三条の旅籠・池田屋に潜伏する尊王派の浪士を新選組が強襲した事件である、というところまでは整理できました。池田屋事件には、坂本龍馬は登場しません。でも何だかいつも、坂本龍馬が関係しているとうっかり勘違いしてしまう……という方も多いのではないでしょうか。そこで次に、同じように幕末に起きた、似たような名前の事件の概要をまとめてみたいと思います。
京都伏見で起きた2つの寺田屋事件とは
「寺田屋事件」とは、実は2度起きています。同じ場所で別々の「寺田屋事件」が存在しているのです。
寺田屋とは、現在の京都市伏見区にあった船宿。現在も、当時の雰囲気を残した建物が同じ場所に残っています。
この船宿で起きた2件の「寺田屋事件」とは……。
ひとつは、1862年に起きた、薩摩藩の藩士同士の斬り合いに発展した事件。「寺田屋騒動」と呼ばれることもあります。幕末・維新の中核となっていた薩摩藩も決して1枚岩とは言えず、過激な行動に出る藩士も少なくありませんでした。そんな暴走寸前の藩士たちと、それを抑えようとする者たちとの間で、いわば仲間内での流血沙汰に発展しまったのです。
もうひとつは、1866年に起きた、坂本龍馬襲撃事件。のちに龍馬の妻となるおりょうが風呂から飛び出して薩摩藩邸へ知らせに走ったという、あの一連の出来事を時代劇などで記憶している方も多いでしょう。この事件で坂本龍馬は深手を負いますが一命を取り留めます。
どちらも同じ寺田屋で起きているので関連があるのかと思われがちですが、同じ時代に起きた事件であること以外、特に関連はありません。
さらに、新選組も無関係。坂本龍馬襲撃に新選組が関与していたのでは?という見方もあるそうですが、あくまで説のひとつに過ぎないようです。
現在の寺田屋の建物には、当時の刀傷や弾痕と思われる痕跡が生々しく残っており、坂本龍馬ファンをはじめ、当時を偲ぶ人たちが連日数多く訪れています。
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坂本龍馬暗殺!謎多き近江屋事件とは
もうひとつ、幕末の「●●事件」と呼ばれて池田屋事件と混同するもとになっている出来事に「近江屋事件」があります。こちらが、坂本龍馬殺害事件です。
1867年12月、場所は現在の京都市中京区塩屋町。京都河原町通り沿いにある老舗の醤油屋でした。寺田屋が役人に目をつけられてしまったため、坂本龍馬はこの近江屋を拠点に活動していたと考えられています。
前の年に寺田屋事件が起きており、坂本龍馬は命を狙われていました。寺田屋で龍馬襲撃したのは伏見奉行でしたが、近江屋で龍馬を襲ったのが誰なのか、まだわかっていません。
刺客は夜、坂本龍馬に会いたいと言って近江屋を訪れ、龍馬の付き人が中に招き入れると途端に抜刀し、龍馬を一刀両断にしたと言われています。
坂本龍馬は土佐藩の下級武士でしたが、脱藩し、長崎で新しいビジネスを展開したり藩の垣根を取り払って薩摩と長州の間を取り持ったりと、自由に動き回っていました。それを危険と感じる者は少なくなく、常に命を狙われる状況にあったようです。
龍馬の命を奪った人物については、新選組ではないか、京都見廻組の仕業か、薩摩藩が裏で糸を引いていたのではないか、など諸説あり。謎多き事件として今も語り継がれています。
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