幕末日本の歴史江戸時代

黒船の提督「ペリー」は意外と苦労人だった?わかりやすく解説

どうする?ペリー来航後の江戸幕府の動き

ペリーが浦賀を去って間もなく、将軍家慶がこの世を去り、13代将軍として徳川家定が就任します。家定はもともと病弱であり、現状を好転させるような頭脳も人望もなく、とてもリーダーシップをとれるような人物ではありませんでした。

一年後には再び、あの巨大な黒船と強面のペリー提督がやってきます。早く結論を出さなければなりません。でも将軍は頼りなく、どうすべきか方針が定まらないうちに、いたずらに月日だけが過ぎていきます。開国か、異国排斥か、幕府だけでなく諸藩の中でも、はたまた庶民の間でも、様々な意見が飛び交いました。

良策が浮かばないまま、幕府はとりあえず、万が一、黒船と戦闘状態になったときのために、江戸湾(東京湾)に砲台を築くことにします。東京の「お台場」は、このとき築かれた砲台のうちのひとつです。

さらに、江戸初期からずっと禁じられていた大型船の建造も解禁。各藩で大型船の建造が行われるようになります。

幕府は、現在の幕府の力だけではこの事態を打破できないと感じたのかもしれません。それまでのように、絶対的な権力を持って各藩を押さえつけるのではなく、あくまでも「許可する」という形を取り幕府の威厳を保ちつつ、有力藩との協力体制を取ろうとしたのでしょう。

巧みな外交術と日本に与えた影響

1854年の2月、ペリーは再び浦賀沖に現れます。前回の来航からおよそ半年後。今度は7隻もの艦隊を従え、有無を言わさずの入港です。1年後との約束だったのに……。江戸幕府がどれほど慌てたか、容易に想像がつきます。

ペリーは日本を離れてから、香港に逗留していました。そこで将軍が変わったことを知り、隙を突くチャンスと見たようです。効果はてき面。江戸幕府にはもう、小細工をする猶予はありません。

それまでの日本のやり方であれば、諸外国との交渉の場は長崎の出島で行うのが筋でしたが、ペリーはオランダ人たちの介入を嫌い、あくまで江戸周辺での交渉を貫きました。

再来日から1ヶ月ほどで、ペリーは日米和親条約にこぎつけます。場所は横浜。この条約によって、下田、函館の2つが開港。200年以上続いた鎖国体制は終焉を迎えます。役目を終えたペリーは江戸湾を離れ、沖縄を経由して香港へと去っていきました。

短期間で鮮やかに勤めを果たしたペリー。当時の日本の人々の目に、黒船はどのように映っていたのでしょうか。

再びやってきた黒船に、浦賀には連日、多くの見物客が詰めかけたと伝わっています。

黒船は確かに恐ろしい。しかし、ただ恐怖を与えただけではありませんでした。「あんな船を造りたい」「近代国家を目指したい」ペリーが引き連れてきた黒船の存在は、日本人たちの心の中に、そんな思いを抱かせます。この思いが、幕末から明治への原動力となったと言ってもよいのかもしれません。

大役を果たしたペリーの晩年と史跡

日本開国という大役を成し遂げたペリーは、自らが率いてきたミシシッピ号を始めとする艦隊を降り、香港から西回りにイギリス経由で帰国の途に着きます。長きに渡る任務で疲れが出たのか、このとき、体の不調にも悩まされていたのだそうです。

ペリーがアメリカに帰国したのは翌年1855年の2月。日本を開国に導くべく出国してから実に400日以上の月日が経過していました。帰国後間もなく、東インド艦隊司令長官の任を退きます。退任後は日本遠征記などの執筆に携わっていましたが、1858年、長患いの末死去。ロードアイランド州アイランド墓地に墓所があります。

ペリーが日本へやってきてから150年余り。

ペリーが初めて上陸した地、浦賀にほど近い久里浜という街に、ペリー記念館やペリー公園など、ペリー提督ゆかりの史跡や名所がいくつも造られています。黒船は浦賀沖に出現しましたが、実際に上陸したのは、当時は浦賀より規模の小さな漁村であった久里浜でした。

駅前広場や商店街など、街のいたるところで「ペリー」や「黒船」にちなんだ店名や商品を目にすることができる、ペリー提督を身近に感じることができるスポットとして大変人気があります。

今は近代的な建物が立ち、多くの人が住む浦賀・久里浜。150年前、この海に突然、それまで見たこともない船が煙をはきながら現れたとしたら、自分だったらどう感じただろう……。そんなことを考えながらのんびり散策を楽しむ人も多いようです。

意外と緻密で策略家だった?日本の鎖国政策を終わらせたペリーの影響

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日本で「ペリー」といえば黒船に乗ってきたあのペリーですが、アメリカではお兄さんのほうが有名人だと聞いて少々驚きました。どうしても日本を開国させ通商条約を結びたい、それも今すぐに……もっとやんわり下手に出る方法もあったかもしれませんが、ペリーは終始強硬な姿勢を崩さず、毅然と交渉を進めたのだそうです。でも、このペリーの戦略があったからこそ、その後の日本の近代化に拍車がかかり、そのおかげで今の私たちの生活があるのかもしれない……ふと、そんなことを感じました。

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