アメリカの歴史独立後

アメリカ最大の内戦「南北戦争」背景・経緯・その後をわかりやすく解説

ホームステッド法と奴隷解放宣言

南北戦争は北部・南部とも準備不足の状態で始まったため、どちらも決め手を欠き長期化しました。膠着した現状を打開するため、リンカンは2つの手を打ちます。

一つは1862年のホームステッド法の制定です。ホームステッド法はミシシッピ川以西に一家で移住し、5年間定住・耕作した場合、160エーカーの土地の所有権を与えるとした法律でした。ホームステッド法は資本が少ない農民に広い農地を手に入れるチャンスを与えるもので、西部の農民は北部の連邦政府を支持するようなります。

もう一つは奴隷解放宣言です。1862年9月、リンカンは南部諸州が復帰しない場合、翌年1月1日に奴隷を解放するとしました。南部諸州はこれを無視。リンカンは1863年1月1日に奴隷解放を宣言します。宣言の発表は戦争の目的が奴隷解放であることを内外に印象付けました。それまで、南部を支援してきたイギリスでは奴隷解放宣言後、国内で戦争反の世論が高まり、公然と南部を支援しにくくなります。

北軍の逆転とゲティスバーグの演説

1863年、東部戦線で大きな動きがありました。東部戦線でのいくつかの戦いで勝利し、勢いにのったリー将軍率いる南軍はボルティモアやフィラデルフィアの攻略を目指し、鉄道などが集まるゲティスバーグに進軍します。北軍は南軍の動きを阻止するためにゲティスバーグ周辺に展開、戦いが始まりました。

戦闘開始直後は南軍が優勢で、北軍はゲティスバーグの街から後退します。しかし、南軍は北軍を完全に圧倒することはできず戦線は膠着。そうこうしているうちに両軍とも増援が到着す戦闘規模は拡大していきました。

ゲティスバーグでの戦闘は3日間にも及びましたが、双方合わせて50,000人以上もの死傷者を出す大激戦。最終的に、南軍はゲティスバーグよりも先に進軍することができず撤退します。

戦いの四か月後、リンカンは戦没者慰霊でのいわゆるゲティスバーグの演説で「人民の、人民により、人民のための政治」を守るための戦いで戦死した兵士の霊を慰めました。

南北戦争後のアメリカ

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ゲティスバーグの戦い以後、物量に勝る北軍が優勢になります。なかでも、西部戦線で勝利したグラント将軍が全軍の指揮権を握ってから、北軍は南軍を圧倒。さしものリー将軍も降伏しました。勝利によってアメリカ分裂を阻止したリンカンですが、南北戦争終結直後に暗殺されます。リンカンの死後、アメリカは西部開拓の時代に入りました。その一方、黒人差別は根強く残り続けます。

南軍の敗北とリンカン暗殺

ゲティスバーグの敗戦後、戦いは北軍優位に進みました。北からはグラント将軍が、西からはシャーマン将軍が南部諸州に進撃。抵抗を排除していきました。

1865年4月3日、北軍は南部の首都リッチモンドを攻略。西へと撤退する南軍を追撃します。そして、4月9日、北軍はリー将軍の南軍を打ち破り、リー将軍が降伏。これにより、南部は継戦能力を失い降伏しました。

南軍降伏直後の1865年4月14日、リンカンはワシントンDCにあるフォード劇場で観劇中に狙撃され、命を落とします。犯人は熱狂的な南部支持者の俳優ブースでした。リンカンの死後、副大統領のアンドリュー=ジョンソンが大統領に昇格しました。在任中の大統領が暗殺されたのは、リンカンが最初です。

進む西部開拓

南北戦争の終結後、アメリカでは西部開拓が本格化しました。戦争終結の四年後にあたる1869年、大陸横断鉄道が完成します。これにより、工業の中心である東部と開発が進む西部が結ばれました。

そもそも、西部は1849年のゴールドラッシュにより急速に発展しつつありましたが、戦争の終結やホームステッド法の制定、大陸横断鉄道の完成によって開発に一層の拍車がかかります。

その一方で、先住民族であるインディアンたちは土地を追われ、狭い保留地へと押し込められていきました。1870から80年代にかけて、インディアンたちは最後の組織的抵抗を見せますが、1890年のウーンデットニーの虐殺で抵抗運動は終息します。また、黒人労働力に代わって中国人の苦力(クーリー)たちが流入するのもこの時期のことです。

残された黒人差別

リンカンが出した奴隷解放宣言は1865年の憲法修正第13条で確定。黒人奴隷制は廃止されました。1866年の憲法改正で黒人にも市民権が認められ、1870年の憲法改正で黒人の投票権も認められます。

しかし、市民としての権利は認められたといっても経済的な貧困が改善されたわけではありません。戦争終結後に再建された南部諸州では黒人の自由を制限する法律が出されるなど、黒人差別は根強く残りました。

加えて、1870年代以降は白人至上主義を掲げる団体が組織的に黒人に暴力を加える事件が多発。第二次世界大戦後の1960年代におきた公民権運動は、奴隷解放宣言後も根強く続く黒人差別に対する反対でもあったのです。

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