文明開化による政府の目標【富国強兵政策】
こうして明治時代に入ってから様々な改革が行われた日本でしたが、近代化したのは何も文化だけではありません。日本を動かす政府も欧米のシステムを取り入れて新しい日本の仕組みを作ろうとしたのです。
次はそんな明治政府がどんな政治を行って行ったのかを見ていきましょう。
地租改正
江戸時代までの日本では税金といえばその年に取れたお米を年貢として取り立ててお金に変えていました。しかし、この方法だと年によって取れるお米の収穫高にばらつきが起こってしまうとその時の年貢の量が減ったりすることもありました。
そうなると政府としたら困ります。政府からしたらこれからいろいろな近代的な工場や制度を整えるのにお金が必要なのにその年ごとに税収がバラバラだったら予算を組むのに一苦労してしまうのです。
そこで明治政府は明治6年に地租改正条例というものを発令。これまではお米で納めていた税金を地券というその土地の価値の3%の税金を支払うという形となりました。
この地租改正によって政府の税収は安定。予算を組むのが楽となり、この税金を元に色々な工場や制度を整えていったのでした。
学制
近代化を推進するためには明治政府の役人だけが賢いのではダメです。日本国民みんなが勉強をして国のために役立てることが近代国家を作る近道でした。
そのため、政府は明治5年に学制という制度を確立。フランスの教育制度を参考にして日本を大きく8つの学区に分けてその本部に大学を置いて(これがのちの旧帝大となる)その下に中学校や小学校を置いて国民みんなが教育を受けることができる義務教育の基礎を確立させたのでした。
徴兵令
税制の改正・教育制度の確立がなされたのち、日本を守る軍隊の育成に取り掛かります。その目玉政策の中に徴兵令がありました。
徴兵令というのは簡単に言うと国民がある一定期間兵役について有事の時は国のために立ち上がる制度のことです。
今では日本の自衛隊は志願制という形となりましたが、今でもお隣の韓国は朝鮮戦争の対応に当たると言う理由から徴兵令が敷かれています。
さて、江戸時代では軍隊といえば各藩バラバラの軍隊を持っており、明治維新も長州・薩摩藩を中心とした藩士が合わさった軍で日本のために戦うと言う意識はありませんでした。
しかし、徴兵令が発令されたことによって国民は血税一揆という徴兵反対の運動が行われたものの、国民が日本を守るために一致団結するようになったのでした。
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殖産興業
こうして制度をどんどん整えていった政府でしたが、いくら政府を整えてもそれを支える産業を育成しなければ近代国家として見られることはありません。そこで当時明治政府の実質的なリーダー出会った大久保利通は内務省という機関を置いて政府が主導となって全国に工場を建てて産業を育成する殖産興業に踏み切ったのでした。
大久保はまず、産業を育成するために外国からお雇い外国人をスカウト。その人の指導のもと様々な工場が建てられていき、稼業をスタートしました。そんな殖産興業でしたが、日本が特に力を入れたのが繊維業でした。日本は昔から養蚕が盛んだったことを生かして群馬県の富岡に製糸工場を設立。これがのちの富岡製糸場のですが、政府は産業を育成した後、この工場たちを民間に払い下げ。特に三井と三菱に多く払い下げが行われてのちの財閥誕生につながったりもしました。
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