幕末日本の歴史江戸時代

日本が大きく変わった「文明開化」何が変わった?わかりやすく解説

文明開化を支えたお雇い外国人

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このように明治政府は様々な改革を行なっていきましたが、このような近代化を推し進めたのは日本人だけでは到底不可能です。そこで政府はヨーロッパやアメリカから知識人をスカウトして日本の発展に貢献させようとしたのでした。

次はそんな日本の発展に特に貢献した6人のお雇い外国人について見ていきましょう。

エドモン・オーギュスト・バスチャン

エドモン・オーギュスト・バスチャンはフランス出身の建築家であり、1866年に日本にやってきてお雇い外国人となりました。

バスチャンが行った功績といえばやはり横須賀海軍工廠と富岡製糸場の建築をしたこと。

バスチャンが建築した建物は今ではほとんど残されてはおりませんが、富岡製糸場が世界遺産となったことは彼にとっては誇りとなったかもしれませんね。

ロエスレル

ロエスエルは元々ドイツ人を日本に送る斡旋人を務めていましたが、青木周蔵という日本人にその才能を認められてお雇い外国人として日本にやってくることとなりました。

ロエスエルの功績といえばやはり大日本帝国憲法の制作に携わったこと。憲法制定にあたってロエスエルはドイツ流の憲法を推奨して大日本帝国憲法がドイツ流の欽定憲法となることとなった要因となりました。

エドワード・モース

モースはアメリカにて動物学と考古学を研究していた学者でしたが、シャミセンガイという動物を研究するために日本に来日してそこでお雇い外国人として東京大学にて生物学の講師として働くこととなります。

そんなモースの最大の功績といえばやはり大森貝塚の発見でした。モースは汽車に乗って外国人待があった横浜から新橋に行く途中大森あたりで貝が重なっている地層を発見。早速発掘するとそのは貝塚という縄文時代の遺跡だったことが判明してのちの日本の考古学の先駆者となりました。

ポール・ブリューナ

ポール・ブリューナはフランスにて生糸技術者として活躍していましたが、ひょんなことから日本に派遣させることとなり1866年に日本に来日します。その後彼は当時日本政府が作ろうとしていた生糸の生産工場に携わり、富岡製糸場の最高責任者となりました。

ウィリアム・クラーク

おそらくお雇い外国人の中では一番有名であろう人物がこのクラークでした。日本ではクラーク博士という名称がメジャーとなっていますが。

クラークは札幌農学校(現北海道大学)の教頭として日本に来日。学生を自ら指導するという形で学生とともに学習し、さらにはアメリカ時代に校長として赴任していたマサチューセッツ農家大学の卒業生を札幌農学校に招待するなど様々な教育カリキュラムを整えて札幌農学校のシステムを確立しました。

彼の名言である『少年よ、大志を抱け』は今でも有名ですね。

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