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あのローマ帝国に平和と繁栄をもたらした「五賢帝」とは?わかりやすく解説

「五賢帝時代」とは何だったのか?

15世紀のイタリアの思想家マキャヴェッリや、18世紀のイギリスの歴史家ギボンは、自身の発言や著書の中で、この5人の皇帝が「ローマ史上最高の皇帝」「人類が最も幸福であった時代」などと評しました。彼らの考えが、五賢帝の印象をさらに強いものにしたことは間違いなさそうです。

しかし一方で、この時代の成功と平和はたまたま偶然のことであり、この5人が特に優れているわけでもなく、世襲を排除したことが正しかったかどうか多少の疑問が残る、とする声もあります。

五賢帝が即位する前から、ローマは既にかなり広大な領地と権力を持っていました。そんな強大な国のトップに立った皇帝は、権力に溺れ、自分を見失ってしまうものなのかもしれません。

五賢帝より前のドミティアヌス帝は、自分にとって都合の悪い元老院議員や貴族たちを遠ざけたり処刑したり、私腹を肥やすことに執着しており、度重なる増税に民衆は苦しめられてきました。ドミティアヌス帝の前にも内乱や権力争いは多々起こっており、ローマ帝国の第5代皇帝ネロも悪名高き暴君として知られています。

そんな時代を、役人という立場で間近で見ていたネルウァだからこそ、国を立て直す術を見出すことができたのかもしれません。短期間で後継にバトンを渡したことも、政治を安定させる要因となったと思われます。

そし、そのネルウァの様子を間近で見ていたトラヤヌスも、なすべきこと、大切なことが見えていたのかもしれません。

五賢帝がそれぞれ賢明な人物であったことは言うまでもありません。しかしそれ以上に、ドミティアヌス帝時代の悪政が、五賢帝への期待を高め、成功につながったと考えるべきでしょう。

「五賢帝時代」の後はどうなった?

次の皇帝となったコンモドゥスはアウレリウスの実子ということで、養子縁組による有能な人物を皇帝に据えるシステムはアウレリウスで終了ということになります。五賢帝時代もここまでと見られることが多いのですが、コンモドゥスはどんな皇帝だったのでしょうか。

コンモドゥスの在位期間は180年3月18日から192年12月31日まで。勤勉で人徳のあった父のようにはいかず、暴政を続け私腹を肥やしやりたい放題。いちおう、高い教育を受けてはいましたが自分の趣味や遊びにばかり夢中になって、政治のことはすっかりおろそかになっていました。

コンモドゥスを「史上最悪の皇帝」と評価する歴史家も少なくありません。

それまでの五賢帝の時代が暮らしやすかったということもあって、周囲の落胆ぶりは半端なかったと容易に推測できます。コンモドゥスは護衛によって暗殺され、ネルウァ=アントニヌス朝は終焉の時を迎えるのです。

コンモドゥスが暗殺された後の193年は、1年間で5人もの皇帝が次々と即位しては暗殺されるという激動の年に。外地の勢力も強まり、ローマ帝国は新たな時代を迎えることとなります。

優秀な人材を育てて皇帝へ……五賢帝は今何を語るのか

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政治が乱れてくると、五賢帝が引き合いに出されることが多々あります。評価はまちまちのようですが、民衆のため国家のために力を尽くした皇帝たちは「賢帝」と呼ぶに相応しい人物であったのでしょう。国のトップとしてどうすべきか……答えはひとつではないのかもしれない。賢帝たちのことを調べながら、ふとそんなことを感じました。

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