一般庶民はとにかく衣食住すべてが貧しかった
平安時代には仮名文字が普及し、多くの日記文学や和歌、随筆などが残されています。しかし当時の文学や記録といっても、識字率が高かった貴族や上流階級に属した人間だけのもので、一般庶民たちには縁のないものでした。必然的に貴族目線でしか書かれていないものばかりで、当時の庶民たちの生活を描写したものはほとんど無いといっても良いでしょう。
しかし、実は庶民の暮らしぶりが垣間見える記録も残されているのです。俗にいう【絵巻物】という説話を絵にして巻物にしたもの。例えば【信貴山縁起絵巻】などには都市部での庶民の生活が生き生きと描かれています。「水を汲む女」や「糸を紡ぐ女」、小袖風の着物を着ていたり、建物は掘立式で土壁、屋根は板葺きで土間もある。といった具合ですね。
しかし、それは生活レベルや流通が発達していた都市部だけのことで、農村部へ行けば弥生時代と変わらぬ竪穴式住居が一般的でした。地面に穴を掘り、そこに床や壁、屋根などを設えたもので、質素極まりない建物だったといえるでしょう。
また庶民の衣服ですが、男性は直垂(ひたたれ)に括り袴(くくりばかま)を履き、非常に質素で動きやすい服装でした。のちの武士たちも同じような服装をしていますので、実用的だったのではないでしょうか。女性は小袖を着ており、素材は麻でした。絹は高級過ぎて庶民には行き渡らず、綿が栽培されるのはもっと年代が下ってからです。衣服もほとんど替えなどはなく、着の身着のまま。川で水浴びするくらいで風呂に入る習慣すらありませんでした。
実際の庶民の食事を見てみよう!
これも都市部と農村部によってかなり違いはあります。モノがたくさん流通している京などではコメも手に入った可能性はありますが、当時の日本の人口が約500~600万だといわれており、京の人口はせいぜい10万ちょっと。とすると大多数の日本人はコメなど口にできなかったと推測しても良いでしょう。
庶民の主食は雑穀類で、粟や稗(ひえ)などが食べられていました。当時は白米であっても【炊く】という習慣がありませんでしたので、雑穀は煮て水分をたっぷりと含ませ、かさ増しして食べられていたようです。副菜としてはネギや野草などを茹でたもの、汁物はあまりなくて、味付けは塩くらいしかありませんでした。
庶民の場合、食事は1日1度。多くて2度くらいで、明らかに摂取カロリーが少なく、栄養も足りていません。当時の日本人の平均寿命が30歳くらいだということを考えれば、いかに質素だったかがよくわかりますね。
平安時代の庶民の食事例
※都市部の場合
玄米を蒸したもの
青菜を茹でもの
わかめ汁(味噌はまだ考案されていない)
※農村部の場合
雑穀と草を茹でたお粥状のもの
まれに魚や野生動物の肉など(仏教の教えで肉が禁忌なのは、庶民には関係なし)
平安貴族たちの食事ってどんなもの?
次に、平安時代における貴族たちの食事を見ていきましょう。この400年の間に、大陸文化の影響を色濃く残した食事の作法や儀式というものが、徐々に日本独特の進化を遂げていく過渡期にあたるのです。
日本料理の基礎が平安時代にできあがる
平安時代初期は、さまざまな文化や習慣というものが中国大陸からの影響を色濃く残している時期で、食事も例に漏れず中国式の作法であったことが知られています。なぜなら唐(中国)はまだ健在でしたし、唐からの国賓を迎えるために中国式の食事作法は必要不可欠だったからです。それを優れた文化だとして貴族たちが模倣したからなのですね。
ところが894年に菅原道真の建議により遣唐使が廃止となり中国との交わりが断絶すると、食文化を含む色々な文化が純日本風へと舵を切っていくことになります。そして藤原氏を頂点とする摂関政治が始まり、貴族全盛の時代になるや、形式主義が食事の面でも蔓延し、まず「日本独自の儀式にのっとること」や「華やかに見せること」が不可欠となりました。元旦における三献の儀やお屠蘇の習わしもこの頃に定着していますし、七草がゆなどの日本独自の風習もこの時代からですね。
独自に発達してきた日本料理もその源流は、【季節ごとの節句】や【風習】、【ハレの日】などにあるのではないでしょうか。
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様々な調味料の出現
現代にはまだまだ及ばないといっても、平安時代には多くのの調味料が大陸から持ち込まれ、また考案されました。7世紀に日本へ入ってきた塩蔵食品の技術のおかげで、海水を煮詰めて作る【塩】がポピュラーな調味料とされ、比較的安価だったので庶民の間でも流通していました。
また、塩由来の発酵食品や調味料も多く考案されました。魚や肉、野菜などを塩漬けすることによって発酵を促し、【醤(ひしお)】が出来上がります。魚の場合は魚醤と表現した方がわかりやすいでしょうか。醤油の原型とも呼べるものなのですね。そして大豆の醤からは【味噌】が考案されたとのこと。
この頃にはすでに【酢】や【砂糖】も使われていましたし、すでに日本料理が発達する基礎ができあがっていたということでしょう。しかしこの頃はまだ食材じたいに味をつけるという調理法はなく、食膳で別に調味料を用意しておき、好みで付けて食べていたようです。