天下の迎賓館だった岐阜城
現在の岐阜城は、山頂に復元天守閣が建っているくらいですが、信長時代には山頂の天守閣以外に、山腹から山麓にかけて多くの曲輪や建物群が重なっていました。信長は自身は山麓の居館で過ごしていましたが、発掘調査の結果、大規模な庭園跡が何か所も発見されています。
縁の外側には5~6の美しい庭があるが、すべてがきわめて丁寧で新しく、何か雪のように白いもので作られていて、小さな空間をなしている。これらの庭のあるものには1パルモの高さまで水が溜められており、その下には庭石と雪白の砂が敷かれていて、沢山の種類の魚が泳ぎまわっていた。
引用元 「アルカラ版イエズス会士書簡集」より
当時の外国人宣教師が書いた書簡の中でも詳細に紹介されており、京の庭園をつぶさに見た信長が、岐阜城の山麓御殿にも庭園を造らせたものだといわれています。ここには公家の山科言継や大商人の津田宗及、武田家臣の秋山伯耆守、ルイス・フロイスなどが訪れたという記録があり、華麗な庭園を目の前に盛大なおもてなしが行われたということが想像できますね。
交通の要地に安土城を築く
包囲網の危機を脱した信長は、続く長篠合戦でも武田軍を撃破。東からの脅威を取り除いたあと、いよいよ西の毛利と雌雄を決するため居城の移転に取り掛かります。選ばれたのは東山道を抑え、琵琶湖水運の要地でもあり、京都にも近い近江でした。現在の近江八幡市にある安土山が城地に選定され、ここに3年をかけて壮麗な安土城が建設されました。
やはり信長の築城の特徴でもある主君と家臣とのタテの関係が重視され、「信長は山頂の天守閣に、家臣団は麓に」という図式から成り立っていました。また、本丸には天皇をお迎えするための広大な御殿も造営されていましたが、御殿よりも天守閣のほうが明らかに高く、「タテの関係」を重視する信長によっては、もはや天皇ですら自分より格下だということ。という認識でいたのかも知れませんね。
安土城の最期
1582年、本能寺の変において信長が亡くなり、同年、安土城も原因不明の出火によって消失してしまいます。完成からわずか3年ほどでその役目を終えますが、安土城の建築様式は、秀吉の大坂城や、その後の江戸時代へ続く城郭建築の規範となったことは間違いなく、現在見られる近世城郭の全ては、この安土城が元になったといっても良いでしょう。
後継者の羽柴秀吉は、焼け落ちた安土城を再利用することなく、近隣に八幡山城や佐和山城などの堅固な城郭を築くことになりますが、「信長公の夢のあと」を求めて、現在も多くの歴史ファンが安土山を登っているのです。
こちらの記事もおすすめ
【今さら聞けない本能寺の変】織田信長は何故裏切られたのか? – Rinto~凛と~
信長の城を巡ってみよう!
これまでにご紹介した「信長の5つの城」。それぞれに特徴があって、築城に関する信長の考え方を知ることができます。そして距離的にも意外と近く、一日で巡るのも容易です。もし機会があれば、年代ごとに訪れてみるのも良いかも知れませんね。
こちらの記事もおすすめ
異端の戦国武将織田信長!革新性と厳しさの天下布武の結果はいかに? – Rinto~凛と~