桶狭間での勝利によって東方からの脅威がなくなる
信長がようやく尾張を統一したその頃、東から尾張を虎視眈々と狙っている勢力がありました。それが今川氏で、織田信秀の代から尾張や三河を舞台として小競り合いが繰り返されていましたが、抜かりのない信長は、簡単に攻め込まれないように各所に砦を築いて今川氏の動きを封じていたのです。
そこで当主今川義元は、一挙に片を付けるべく2万5千とも4万ともいわれる大軍勢を催して尾張へ進攻してきました。桶狭間の戦いに関しては諸説あり、ここでは詳細を述べることを避けますが、いずれにしても信長は少数の兵力ながら今川勢を打ち破り、義元は討ち死に。東からの脅威を除くことに成功したのでした。
当時、今川氏の幕下だった松平元康(のちの徳川家康)は今川氏から離反し、三河の国主として返り咲きます。これを好機とみた信長は、家康と同盟を結ぶことに成功(清州同盟)。後顧の憂いなく、目を東へ向けることになるのです。
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隣国美濃を虎視眈々と狙うための城【小牧山城】
愛知県小牧市にある小牧山。春には桜の名所としても有名ですが、ここにはかつて信長が築いた小牧山城がありました。東からの脅威が去った時、亡き義父斎藤道三の弔い合戦として。また、織田のさらなる繁栄のため、尾張の北西に位置する美濃国(現在の岐阜県)はどうしても取らねばならい地でした。新たな信長の戦いが始まります。
清州から小牧山へ
それまでの信長の居城といえば、那古野城しかり清州城しかり平坦な濃尾平野の中にしか存在しておらず、居館の域を出るものではありませんでした。尾張の国主として、これから美濃を併呑するためのシンボルとして、信長の地位を知らしめるための城が必要だったのです。
たしかに当時の守護大名や戦国大名たちといえば、居館クラスの屋敷を構え、その周囲に家臣団の屋敷があるという状態で、主君と家臣の間柄といえども、どちらかというと並列的な存在でした。それを画期的に変えようとしたのが信長の考えだったのです。
信長が目を付けたのは、濃尾平野の中にひょっこり突き出た独立丘。それが小牧山でした。最近の発掘調査で明らかになっていますが、小牧山はもともと大きな岩盤で形成された山で、信長は山頂の岩盤部を削り取らせ、削った岩を上へ上へ石垣として積んでいき、最終的には高い石垣によって縄張りされた見上げるほどの城だったそうです。
さらに麓に屋敷群を作り家臣を住まわせようとしました。そうすることによって、それまで並列的だった主君と家臣の関係性がタテになるよう、視覚的にわからせるようにしたのです。こういった視覚的な意図は、後の岐阜城にも安土城にも見受けられることとなります。
そういったことを日本で初めて考え、成し遂げたのも信長だったのです。
天下布武の城【岐阜城】
信長が小牧山城を居城にしていたのは、わずか3年の間。次に信長の本拠地となったのは、硬い岩盤の金華山山頂に建つ岐阜城でした。この城を拠点として信長は天下へ覇を唱えていったのです。
美濃を攻略し、天下に覇を唱える
美濃の国主斎藤氏は信長にとって確かに強敵でしたが、ようやく内部の切り崩しに成功し、1567年、その居城稲葉山城を奪取することができました。信長はこの城を中国の故事になぞらえて岐阜城と名付け、この岐阜城から天下を見据えたのです。さらに妹のお市の方を近江(現在の滋賀県)北部の戦国大名浅井氏へ嫁がせ、北の守りも盤石にしました。
しかし、京都へ上ろうにも、その思いだけでは成しえないことも多かったのです。天下に号令するためには【大義名分】が必要でした。足利13代将軍義輝が臣下の者たちに殺された後、その弟の義昭は朝倉氏に庇護されていましたが、いつまで経っても腰を上げようとしない当主義景に愛想をつかし、信長の元へやって来たのもこの頃のことだったのです。
信長は、義昭のために上洛の軍勢を催し、瞬く間に京都へ進撃。敵対勢力を次々に撃破していきました。晴れて将軍となれた足利義昭でしたが、何かと政務に口を挟んでくる信長のやり方に不満を覚え、信長が遠く離れた岐阜城にいることを良いことに、信長を除くための策謀を繰り広げるのでした。
迫りくる信長包囲網
足利義昭の策謀が功を奏し、徐々に信長包囲網が形成されつつありました。まるで岐阜城を取り囲むように、越前(福井県)の朝倉、それに味方した浅井、信濃(長野県)方面からは武田、畿内の一向一揆、三好の残党など。そんな中で信長自身もケガを負うなど悪戦苦闘します。織田軍が東奔西走しながら転戦を繰り返していたこの頃が信長にとって最も苦しかった時期だといえるでしょう。
しかし、信長にとっての最大の幸運は、最強の敵だと目された武田信玄が志半ばで病死したことでしょう。これをきっかけにして、後ろ盾を失った反信長勢力は急速に瓦解していくのです。浅井朝倉の滅亡に続き、三好一派が畿内から駆逐され、伊勢長島の一向一揆をも壊滅させることに成功。信長は危機を脱しました。
信長包囲網の元凶ともいえる将軍義昭を追放したことで、足利幕府も瓦解。これ以降の日本の歴史は、まさに信長の独壇場となっていくのです。
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