室町時代戦国時代日本の歴史

海道一の弓取りといわれた「今川義元」の生涯とは?わかりやすく解説

三河進出と織田家との対立

甲相駿三国同盟により後顧の憂いがなくなった今川義元は積極的に三河に進出します。西三河に勢力を持っていた松平氏は松平清康の死後、弱体化していました。松平広忠は今川氏の圧力を前に、従属することを決断。嫡男竹千代を今川氏の人質として差し出しました。

ところが、竹千代は駿府に送られる途中で戸田氏の手によって奪い取られ、織田氏のもとへと送られました。それでも広忠は今川への従属をかえません。結局、2年後に人質交換で竹千代は今川氏のもとに送られることとなりました。

1551年、織田信秀が死去すると西三河から尾張方面への進出を加速します。そんなとき、1558年、今川義元は家督を嫡子の氏真に譲り、形の上では隠居。しかし、実際は新領土の三河経営に専念していたようです。こうして、義元は着々と西に向かう準備と整えていきました。

今川氏の下で花開く京都文化

室町幕府将軍家の血を引く名門、今川家。特に、義元時代は周辺諸国を圧倒する軍事力と経済力を有していました。今川氏の力を頼って京都から多くの公家や文化人が身を寄せます。当時の京都は打ち続く戦乱で荒れ果てており、公家や文化人たちは身の安全を図る必要があったからでした。

連歌師の宗長は今川氏の関係者を招いて連歌会を催しつつ、京都の公家や文化人、他の戦国大名たちとの連絡役も担います。また、公家の山科言継は戦国時代きっての名士として知られていました。山科言継が駿府に滞在中、今川氏の関係者や他の公家たちと茶会・宴会・和歌の会などを催しています。駿府は地方にありながら京都文化と深くつながりを持つ場所となりました。

義元の死と今川氏の滅亡

三国同盟により背後を固め、寄親・寄子制によって家臣団の統制を強めた義元は本格的に西に進出します。義元の前に立ちふさがったのが織田信秀の子、織田信長でした。義元は積年の敵である織田氏を打ち破り、上洛するため京都へと兵を進めまます。しかし、その途中の桶狭間で非業の死を遂げました。義元の死後、今川氏は急速に弱体化し滅亡してしまいます。

桶狭間での敗北

1560年6月、今川義元は駿河・遠江・三河に号令をかけ尾張に向けて進軍を開始しました。その数、およそ20000とも25000とも伝えられます。義元の下で人質となっていた竹千代は松平元康となり、三河勢を率いて先鋒を務めました。

対する織田軍は義元が駿河を進発したとの知らせを聞いても動きません。家臣たちが清須城での籠城か城外に打って出るべきか激論を交わしているころ、信長は我関せずとばかり会議を打ち切ってしまいます。

信長は圧倒的兵力差を覆すには総大将の今川義元を討ち取る以外に方法はないと考えていました。そのため、義元の居場所を必死に探らせていたのです。今川軍の動向をつかんだ信長は突如として出撃。義元本隊がいるだろう桶狭間を目指します。

おりしも、梅雨時の豪雨で前も見えないありさまだったため、軍馬や甲冑の音はかき消されてしまいました。雨宿りの休憩をしていた義元本隊の前に織田軍が出現。混乱する今川軍をしり目に義元の首を狙いました。そして、激戦の末、義元は毛利新介によって討ち取られてしまうのです。

今川氏の滅亡

桶狭間にて今川義元討ち取られる。この知らせは今川軍を混乱の極みに追い込みました。圧倒的優勢だった今川軍は雲散霧消してしまいます。

義元の死後、今川氏真は求心力を急速に失ってしまいました。西三河では松平元康が今川氏から離反。織田信長と清須同盟を結びます。その元康は名を家康と改め、東三河から今川氏の勢力を追い払いました。隣国の遠江でも動揺が走ります。

この今川氏の混乱ぶりを見て同盟を結んでいた武田信玄は今川氏と手を切ることを決断しました。1568年、武田信玄は今川家との同盟を破棄し駿河に侵攻。多くの家臣に裏切られた今川氏真は遠江の掛川城に逃れます。

しかし、その掛川城も西から攻めてきた徳川家康(松平家康が改名)によって包囲されました。どうにもならなくなった氏真は妻の実家である北条氏のもとに逃れ、戦国大名今川氏は滅亡したのです。

今川義元は東海に一大勢力を打ち立てた優秀な戦国大名だった

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桶狭間の敗戦のため、過小評価されがちな今川義元ですが武田信玄、北条氏康らと互角以上に渡り合った優秀な戦国大名でした。海道一の弓取りの名は伊達ではなかったのです。しかし、父の跡を継いだ今川氏真には周囲の強大な大名たちと渡り合う力はありませんでした。氏真自身は戦国の世を生き抜き、今川家の家系は江戸時代にも続いていきます。これもまた、一つの生き方かもしれませんね。

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