原因究明の動きと水俣病をめぐる裁判
1954年の水俣病の公式報告から10年以上たっても、水俣病の原因は特定されませんでした。原因として伝染病説や重金属中毒説、有機水銀中毒説など複数の原因があげられましたがいずれも特定には至りません。最終的にメチル水銀が原因だと特定されたのは1968年のことでした。被害にあった人々は救済を求め裁判を起こします。
遅々として進まない原因究明
水俣病の患者が水俣湾周辺で多発した時、原因不明の「奇病」を解明すべく水俣病奇病対策委員会が設置されました。伝染病の可能性も考え、患者の家を消毒。しかし、水俣病の発生はとまりません。
伝染病の可能性が薄れると重金属中毒説が浮かび上がります。熊本大学医学部を中心に調査を進めましたが、水俣湾産の魚介類を大量に食べることで水俣病になることだけしかわかりません。
1959年には水銀が注目されました。しかし、チッソは有機水銀説を否定します。ところが、チッソ附属病院で医師が行った工場廃液を混ぜたエサを猫に与える実験では水俣病の発症を確認。しかし、チッソは責任追及を恐れこの事実を公表しませんでした。このため、原因究明は遅々として進まず、被害対策はさらに遅れてしまいます。
水俣病の原因確定
1959年、厚生省食品衛生調査会の水俣食中毒特別部会は水俣病の主因は水俣湾産の魚介類に含まれる有機水銀化合物との報告を厚生大臣に提出します。1965年、新潟県阿賀野川下流域で水銀中毒が発生したことが公式に確認されました。新潟水俣病です。
こうして、徐々に原因が水銀に絞られてきました。一方、熊本大学では水俣病の研究を継続。1959年に水俣湾産の貝から水銀を抽出。1963年に熊本大学の研究班は水俣病は水俣湾産の魚介類を食べて起きた中毒性の中枢神経系の疾患であることや原因物質がメチル水銀であることなどを突きとめました。
新潟水俣病や熊本大学の研究などを受け、ようやく政府は水俣病の原因はチッソの工場から排出されたメチル水銀であると認めます。これにより、水俣病は公害病であると公式に認められました。
水俣病をめぐる裁判と1995年の政治決着
水俣病が公害だと公式に認定されると水俣病の被害患者らはチッソに対して相次いで裁判を起こしました。1969年の第一次水俣病訴訟は1973年に患者側が勝訴。推定賠償金1600~1800万円を患者側に支払うこととなりました。1973年の第二次水俣病訴訟でも患者側が勝訴します。
また、1974年に熊本県に対して起こされた裁判では水俣病の認定の遅れは行政の怠慢であるとの判決が出されました。その後もさまざまな裁判が行われ紛争は長期化します。
こうした状況に対し東京地裁は当事者間での話し合いを促し和解を勧告。当時の与党3党が原告・被告の双方に最終解決案を提示しました。この中でチッソは救済対象者に一時金260万円を支払うこと、国・熊本県は遺憾の意などの態度を表明すること、原告の紛争取り下げることを取り決めます。
水俣病をめぐる差別
水俣病は発生当初、原因不明の奇病とされました。そのため、水俣病患者への差別が始まります。伝染病の疑いもあったため、患者の家を消毒したことが差別の原因の一つとなりました。
水俣市民の中にはチッソの工場で働く人が大勢いたため水俣病の騒ぎが広がるとチッソが倒産してしまい職を失うのではないかと恐れた人々も大勢いました。
また、病名に地名が付いたことで水俣市民自体が周辺の人々から差別されることも起きます。水俣病が風土病で空気感染するとか、水俣出身というだけで就職や結婚を断られるなどのいわれない差別を受けるケースも出始めました。
地域内では水俣病患者がそうではない水俣市民から差別され、地域外では水俣市民全体が差別されるという構図が生まれたのです。
一度発生した公害は長期にわたって地域に悪影響を与える
多くの犠牲を出した水俣病は政治的解決によってすべてうまくいったわけではありません。水俣病の発生は健康被害・経済被害にとどまらず多くの人々が差別にも苦しみました。福島第一原発の事故と風評被害・差別などを考えると水俣病は過去のものとは言えません。長期にわたって人々を苦しめる公害は二度と起こしてはならないのです。
こちらの記事もおすすめ