ローマ帝国の成り立ち
さて、ローマ帝国について紹介していきたいと思いますが、日本には『ローマは一日にして成らず』ということわざがある通りいきなり出現したわけではありませんでした。そこでまずはローマ帝国が成立するまでの歴史を見ていきましょう
王政ローマの成立
ローマ帝国の起源は紀元前8世紀ごろ。ラテン人という民族がイタリア半島に移住してローマに王国を築いたのが始まりでした。
この時のローマは7人の王様によって統治されており戦争をしながら内政を行なっていきローマ帝国の基礎を作り上げたのです。
しかし、時が経つにつれて王様の暴政が見られるようになり、最終的には市民によって王様は追放。変わって貴族共和制が誕生しました。王様を追放した市民の中でも特に権力を持っていた人は貴族となり元老院と呼ばれる機関で政治を動かしていくことになるのでした。
共和政ローマ時代
こうして王政ローマは崩壊し、貴族による共和政が実現しましたが、初期の共和政は市民が政治に慣れていなかったせいで超不安定。被選挙権が40歳以上だったこともありローマでは度々若者中心にクーデター未遂が起こっていました。
それでも共和政ローマは着実に成長していき、紀元前367年には議員を市民から選ぶことが決まり、さらには法律の整備も行なってローマの政治を安定させていったのです。そして共和政ローマはイタリア半島の国家を次々と撃破。紀元前272年に南イタリアを征服しイタリア半島を統一したのでした。
ローマ最大の危機
こうして共和政ローマはイタリア半島を統一しましたが、この頃になると北アフリカのカルタゴとの間で地中海を巡る争いが勃発していきました。いわゆるポエニ戦争という戦争です。
しかし、共和政ローマはカルタゴの超有能な将軍ハンニバルに悪戦苦闘。第二次ポエニ戦争のカンナエの戦いでは2倍以上いたローマ軍をあっさりと壊滅に追い込み、ローマの本拠地であるイタリア半島を脅かしていったのでした。
しかし、ローマ軍の有能な将軍であるスキピオがカルタゴに対抗。イベリア半島を攻め、この地を支配下に置くと第三次ポエニ戦争では紀元前146年についにカルタゴを征服しついに長年の悲願であった地中海の覇権を握ったのでした。
共和政ローマからローマ帝国へ
ポエニ戦争に最終的に勝利したことによってローマは地中海を確保。地中海沿岸の土地を属州化してローマの繁栄は決定的なものとなりました。しかし、この侵略戦争のおかげでローマ市内には安価な農作物が流入。これまで必死に作ってきたローマ国内の農民の生活は一気に苦しくなってしまいます。農民の生活が苦しくなってくるとやはり起こってしまうのが反乱でした。
ローマ国内では農民による反乱が横行。それをローマの軍人が討伐することが日常化していき、前1世紀の頃は内乱の世紀と呼ばれるほどローマの政治は不安定なものとなってしまったのです。
また、反乱を鎮圧していくうちに軍人の権力も増加。スラ・ポンペイウス・そしてカエサルなどの軍人による独裁も見られていくようになり、最終的にはカエサルの暗殺後に権力を掌握したオクタウィアヌスがアウグストゥス(尊厳者という尊称。今の8月の英語であるAugustの由来)の称号を元老院から与えられ、共和政ローマは崩壊。代わりに皇帝による帝政が始まりローマ帝国が誕生したのです。
ローマ帝国を彩った5人の皇帝【五賢帝について】
紀元に突入していくとローマ帝国はイタリア半島だけではなく、その周辺の地域を征服していき、そして最盛期には地中海沿岸の全域を手に入れ『パックスロマーナ(ローマの平和)』が実現していくことになるのです。
ネルヴァ【老人の政治】
五賢帝の中で一番最初のローマ皇帝であるネルヴァは簡単に言えば棚ぼたでなった皇帝という存在でした。実はこれには訳があってネルヴァの前の皇帝であるドミティアヌス帝が後に『第二のネロ』と呼ばれるぐらいとんでもない政治を行い、挙げ句の果てには96年に自身に仕えていた家来に暗殺。しかもよりにもよって跡を継ぐ息子はこの当時おらず、元老院によって皇帝とされたのでした。この時ネルヴァは66歳。ローマの平均寿命がこの当時30半ばだったそうなのでかなり不安げのある即位でもあったのです。
そして彼が皇帝に就任するとネルヴァ帝は先代で迫害されていた元老院の議員を復活させ、元老院との関係を修復。政治秩序を元に戻すことに力を注ぎました。さらに彼は政治を動かす官僚を人生経験が豊富であるご年配の人を選ぶなどまさしく老人政治と呼ばれながらもローマ帝国の政治を立て直していったのです。
しかし、彼が皇帝として残した功績といえばこれまで。そんな彼がなぜ五賢帝の1人になれたのかというとやはり余計な政策をしなかったからではないのか?と私は思います。やり過ぎなかったのがかえって良かったのでしょうかね。