ローマのお風呂事情
ローマ市民の最大の楽しみであり日課。それはローマ市内に1000もの施設があった公衆浴場でした。実はローマ帝国はヨーロッパの歴史の中で一二を争うほどの水道が発達している国でして、紀元前まもない頃には下水道と上水道を整備。ローマ市内では綺麗な水に困ることはなかったのです。そのため、この綺麗な水を公衆浴場に使いローマの人の心を癒していたというわけでした。
さらに、このローマ帝国の公衆浴場はこれだけにとどまらず、施設の中にはトレーニングルームが完備されており、レスリングや円盤投げなどのスポーツ競技に打ち込むことが出来ました。
さらに、施設の中には食堂も備え付けられており、風呂に入った後に食事を楽しむことができたのでした。ちなみに料金はここまで至れり尽くせりなのに20円程度だったようで、ローマ帝国の凄さがわかりますね。
ローマ帝国の崩壊
こうして高い技術とパンとサーカスと呼ばれる娯楽施設によって保たれていたローマ帝国でしたが、アントニヌス帝の死後ローマ帝国は混乱の3世紀を迎え、一気に衰退していくことになります。
次はそんなローマ帝国がどうして崩壊していったのかを見ていきましょう。
帝国の分裂と異民族の侵入
最後の五賢帝アントニヌス帝が亡くなるとこれを待っていたかのようにササン朝ペルシャやゲルマン民族の大移動によってやってきたゲルマン人の侵攻を受けるようになっていきます。さらに、国内では共同皇帝という制度を取ったばかりに皇帝の権力が分散。皇帝の権威は失墜してしまい、軍人が勝手に皇帝と名乗る異常事態が起きてしまいました。
そして284年にこの混乱をなくそうとアウレリアヌス帝が帝国の四分割を実行。こうすることによって帝国を保とうとしますが、これによってこれから先度々ローマ帝国は分割。395年にはテオドシウス1世が息子に帝国を二分割したことが原因でローマ帝国は東西に分裂。ここから統一することはありませんでした。
こちらの記事もおすすめ
ゲルマン民族の大移動_その理由は何だったのか – Rinto~凛と~
西ローマ帝国の滅亡
こうして混乱を極めるローマ帝国。そんな混乱の中でも異民族ゲルマン人はローマ帝国を攻めていきます。そしてついに476年に傭兵隊長オドアケルによってローマ帝国は滅亡してしまいまいました。一方で東ローマ帝国はローマではなくコンスタンチノープル(イスタンブール)を本拠地とし、ビザンツ帝国と名を改めながら1453年にオスマン帝国によって滅ぼされるまで細々と存続していたのでした。
ローマ帝国の影響や意義
ローマ帝国は残念なことに476年に滅んでしまいましたが、この帝国は後に、ヨーロッパの憧れとなり神聖ローマ帝国などに代表される帝国の目標として意識されていくようになります。
そして、この帝国の滅亡後ヨーロッパは中世に突入。教会をトップにする新しいヨーロッパ社会が築き上げられることとなりました。