ヨーロッパの歴史

ヨーロッパの超名門「ハプスブルク家」はどんな家?その歴史を解説

日本における貴族といえば藤原家やその子孫である五摂家などがいますが、貴族は日本だけではなくヨーロッパにも多数存在していました。その中でも特に影響があったのが今回の主役であるハプスブルク家でした。 そこで今回はそんなハプスブルク家についてどうしてヨーロッパの名門になっていったのか?どうして衰退していったのか?についてわかりやすく解説していきたいと思います。

そもそもハプスブルク家とは?

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ハプスブルク家とは12世紀から20世紀にかけてヨーロッパに存在した名門中の名門の貴族です。今でこそその名前をヨーロッパでは聞くことはあまりありませんが、元々このハプスブルク家は最盛期にはヨーロッパのほとんどを支配するハプスブルク帝国を築き上げたまさしくヨーロッパの代名詞でもあったのでした。

元々はスイスの弱小貴族

ハプスブルク家が歴史に登場したのは12世紀。現在ではスイス北東部のアールガウ地方にハビヒツブルグ城を建ててその周辺の領地を治めたところから始まりました。ちなみに、勘がいい方ならわかるかと思いますが、このハプスブルク家の名前の由来はこのハビヒツブルク城が訛ったのが由来とされています。

しかし、いくらいずれは世界の名門になる家であっても最初の頃は弱小。もちろんハプスブルク家も例外ではなく、12世紀の時代では教皇と神聖ローマ帝国皇帝の間で起こった叙任権闘争に巻き込まれたりするなど散々な目にあっていました。

それでも13世紀ごろになるとその権力を拡大。今のチューリッヒ周辺に当たる地域に領地を拡大していき、さらには周辺の名家と婚姻関係を結んでその権力を増やしていました。

ハプスブルク家の家訓の「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリア汝は結婚せよ」はこの時から存在していたのですね。

オーストリアを巡った貴族の争い

ハプスブルク家を語るのに欠かせないのが神聖ローマ帝国の存在です。この神聖ローマ帝国は世界史の中でも一二を争うほど単語の響きがカッコいいんですが、でも国として一番大切なトップである皇帝の選び方が強い諸侯から選挙で選ぶという今とはかなりかけ離れたシステムでした。「そんなんで国が成り立つの?」と思いますが案の定成り立ちません。しばしば諸侯同士で争いが起こるなど国としてもはや成り立っていない状況だったのです。そんな中、ハプスブルク家はというと1273年にひょんなことからハプスブルク家出身のルードルフ1世がなんと皇帝に就任。

実はこれには裏があり、当時今で言うところのチェコを治めていたベーメンのオタカル2世がオーストリアに進出していたことに神聖ローマ帝国内の諸侯は頭を悩ませていました。

そこでそのベーメンの対抗馬にハプスブルク家を擁立して牽制しようとしたのです。もちろんオタカル2世にとったらこんなこと不都合しかありません。そこでルドルフ1世は1278年マイヒフェルトの戦いでベーメン軍を撃破。彼が統治していたオーストリアの地を奪い取り、この地を新しく本拠地としたのでした。

こうしてオーストリアを手に入れたハプスブルク家。その後この家はこのルドルフ1世から躍進を果たすことになるのでした。

金印勅書と皇帝位の独占

こうしてオーストリアを手に入れたハプスブルク家でしたが、この頃はまだ一部の当主が神聖ローマ帝国皇帝になっただけで留まり、ヨーロッパの覇権を握ることはできませんでした。

そんな中ハプスブルク家にとってまずい事態が起こってしまうのです。1356年に帝国内の混乱を収めるために金印勅書を発令。金印勅書というのは簡単に言えば皇帝になれる諸侯を限定したというものなんですが、その中にハプスブルク家か入っていなかったのです。つまりはこれからはハプスブルク家が神聖ローマ皇帝になることは不可能という意味もあったのでした。

しかし、神聖ローマ帝国に反旗を翻ることなんて当時のハプスブルク家の勢力じゃ到底不可能です。そこでここは一旦皇帝になるのを諦めて新領土であるオーストリアを開発していったのでした。

そしてその領土経営の成果が実ったのか金印勅書が制定されてから約140年後の1438年にアルブレヒト2世が皇帝に就任することが決定。さらにハプスブルク家のお家芸である婚姻戦略もうまく決まり、当時アルブレヒト2世の娘婿であったルクセンブルク家の領土ハンガリーとベーメンを獲得。次のフリードリヒ3世の時代になるとヨーロッパ最大の領土を獲得するぐらいまでに急成長し、皇帝位の独占もついに果たしたのでした。

2つに分かれたハプスブルク家【スペインの場合】

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こうしてヨーロッパ最大の領土を手に入れ神聖ローマ帝国を実質支配していくことになったハプスブルク家。そしてマクシミリアン1世の時代となると婚姻政策をさらに拡大していき、フィリップ王子をスペイン王女に嫁がせてスペインを獲得。さらにブルゴーニュ公の娘と結婚し、ネーデルラント(今のオランダ・ベルギー)の領土を手に入れハプスブルク帝国の最盛期を築き上げました。

しかし、こんなに領土が広くなってしまうと領土経営がうまくいかなくなっていきます。そこで1556年に当時のハプスブルク家当主であったカール5世は皇帝の座を降りるときに、自分の弟にオーストリアを自身の息子にはスペインを与えハプスブルク家は分裂したのでした。

まずは、スペイン・ハプスブルク家について見ていきましょう。

スペイン・ハプスブルク家と大航海時代

こうして分裂したハプスブルク帝国ですが、スペインの方は息子フェリペ2世にスペイン・ネーデルラント・南イタリアの領地を与えました。

そんなスペイン・ハプスブルク家ですが、15世紀のスペインといえばやはり欠かせないのが大航海時代。スペインはハプスブルク家の豊富な財力を使い新大陸へも進出。メキシコのポトシ銀山から大量の銀を持ち込み大きな利益を上げたのでした。こうしてスペインは最盛期を迎え世界にまたがるその広大な植民地は『太陽の沈まぬ国』と恐れられ世界の主役として席捲したのです。

スペイン・ハプスブルク家の没落

そんなスペイン・ハプスブルク家でしたが、この国の最盛期は短かきものだったのです。

まず、当時のスペインには産業の育成というものが存在していませんでした。それもそのはず産業なんて育成などしなくても植民地から大量の銀がやってきますからね。やる気をなくしたんでしょう。そのため自国の軍事などはすっからかん。同じ頃急速に力を持っていたイギリスやフランスなどに対抗するだけの力を失ってしまったのです。

さらに強硬的なカトリックの政策に反発したどちらかといえばプロテスタント派だったネーデルラントが独立運動を起こし1581年に独立を宣言。ネーデルラント連邦共和国を成立させてしまい、さらにイギリスとのアルマダの海戦に敗北。スペインは急速に衰退していったのです。

さらにそんなスペイン・ハプスブルク家の没落の原因に近親婚の風習がありました。今の時代近親婚というものは法律において禁止されております。「別に愛し合っているんだからいいじゃない」と思う人もいると思いますが、実はそのダメな理由がこのスペイン・ハプスブルク家が証明していたのです。

近親婚をして産んだ子供というのは高確率で遺伝子に異常を持つようになり病弱な王が連発。挙げ句の果てには家系図が最終的に統一してしまうなかなか面白い展開にもなってしまったのでした。

そんなスペイン・ハプスブルク家は1700年にカルロス2世が死去したことにより断絶。わずか44年の短い歴史にピリオドを打ったのでした。

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