ヨーロッパの歴史

ヨーロッパの超名門「ハプスブルク家」はどんな家?その歴史を解説

2つに分かれたハプスブルク家【オーストリアの場合】

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残念なことにスペイン・ハプスブルク家は断絶してしまいましたが、その一方でオーストリア・ハプスブルク家は健在でした。つぎはオーストリア・ハプスブルク家の場合を見ていきましょう。

第二次ウイーン包囲と三十年戦争

オーストリア・ハプスブルク家はカール5世の弟であるフェルディナント1世によって始まりましたが、その歴史はまさに苦難の連続。まず1618年から1648年の間に起こった宗教戦争である三十年戦争によって神聖ローマ帝国はその権力のほとんどを失い、その分皇帝に即位していたハプスブルク家の権力も低下してしまいました。

このままでは急速に勢力を拡大しているフランスのブルボン家に負けてしまう。しかし、ハプスブルク家はここにて意地を見せ始めます。その第一歩と呼べるものが1683年のオスマン帝国による第二次ウイーン包囲でした。この当時、世界における最強の帝国といえばほとんどの人がオスマン帝国と答えるほど最強の国だったのです。そんなオスマン帝国か15万の精強な軍を擁してオーストリア・ハプスブルク家の本拠地であるウィーンを包囲。ハプスブルク家は滅亡の危機に瀕してしまいます。しかし、ハプスブルク家は周りの国の協力によって包囲を解除することに成功。さらに1699年にはカルロヴィッツ条約にてハンガリーを奪還し崩壊しかけていたハプスブルク家は息を吹き返したのでした。

オーストリア継承戦争と近代化の芽生え

こうして滅亡の危機を見事に脱出し、神聖ローマ帝国の皇帝としてヨーロッパをある程度影響力を持つ存在となったのですが、こんな折に2度目の危機に瀕してしまいます。1740年、当時のハプスブルク家の当主であったカール6世ががなんと神聖ローマ帝国を継ぐはずの皇帝継承者を残すことなく死去。オーストリアは一応長女のマリア・テレジアに継いだものの、これを「女性が神聖ローマ帝国の皇帝に即位するなんてあり得ない!」と当時急成長中のプロイセンが抵抗。周りの国を巻き込むオーストリア継承戦争が勃発しました。

この戦争においてオーストリアはプロイセンに一時期劣勢に追い込まれてしまうものの、イギリスの協力によりなんとか引き分けの形で講和を結ぶことに成功。なんとかオーストリアの面目を保てたのでした。

この状況を見てマリア・テレジアかこれまでの考えを改め始め近代化と外交政策を開始。息子のヨーゼフ2世とともに啓蒙主義を掲げ始め、積極的に富国強兵政策を推し進めていきました。

さらにマリア・テレジアは三十年戦争からの仇敵であるフランスと接近。外交革命と呼ばれたこの政策によって当時の皇太子であり後のフランス国王ルイ16世とマリア・テレジアの娘マリーアントワネットの結婚まで成し遂げるなどの成果をあげました。

しかし、これがハプスブルク家を最大の危機に追い込んだということはまだこの時は知る由もありませんでした…。

ハプスブルク家最大の危機【神聖ローマ帝国からオーストリア帝国に】

ルイ16世とマリーアントワネットの結婚の16年後の1789年、フランスにてフランス革命が勃発。ブルボン家は崩壊し、ハプスブルク家に嫁いでいたマリーアントワネットは処刑されてしまいました。これに対してオーストリアは大激怒。そりゃそうですよ。だってマリーアントワネットはこの当時のハプスブルク家の当主の妹だったのですから。そんなわけでオーストリアはフランス革命を潰すためにフランスに出兵したのでした。しかし、フランス革命軍の国粋主義に圧倒されてしまい敗戦。

さらにフランスにナポレオンという化け物軍人が台頭によって一気にハプスブルク家は苦境に追い込まれてしまい、そしてアウステルリッツ三帝会戦に敗北したことによって神聖ローマ帝国はついに崩壊。しかし土壇場にてナポレオンと同盟したことによって神聖ローマ帝国ではなくなったものの、元々ハプスブルク家が治めていた領地をオーストリア帝国として続いていくことになるのです。

第一次世界大戦とオーストリア帝国の崩壊

神聖ローマ帝国が崩壊したのち、ハプスブルク家はオーストリア帝国の君主として君臨するようになり、ウィーン体制の指導者としてヨーロッパの中で影響力を持つようになりました。

しかし、そんなオーストリア帝国よりもプロイセン王国の方がドイツ国内で影響力を持つようになってしまい、1866年には普墺戦争にてオーストリア帝国はプロイセン王国に敗北。ドイツの権益を完全に失ってしまい、さらには多民族国家だったということが原因で国内情勢が不安定なものとなってしまいました。

ハプスブルク家はこれに対してアウスグライヒという妥協政策を行い、オーストリア帝国の中でも特に多かったハンガリー人の王として兼任したものの、これを抑えることはできぬままついに1914年の運命の時を迎えたのでした。

1914年6月28日オーストリア皇太子夫妻がセルビアを訪問した時にセルビア人の青年によって暗殺。オーストリア帝国がセルビアに宣戦布告したことによって第一次世界大戦が勃発してしまいました。しかし、第一次世界大戦が起こり始め、各国が挙国一致体制を築く中、多民族国家は何にも対策をすることができず、4年後の1918年には同盟国であったドイツとともに敗戦。皇帝カール1世が退位し国外追放処分を受けついにオーストリア・ハプスブルク家の時代は終わりを迎えたのでした。

ハプスブルク家はヨーロッパの歴史そのものだった

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ハプスブルク家はオーストリアを国外追放された後、ハプスブルク家はヨーロッパの各地を転々とする生活を強いられてしまう結果となってしまいました。

しかし、1961年になってカール1世の息子であるオットー皇太子がオーストリアに帰国して欧州議会委員を務めるなどEUによるヨーロッパ統合の象徴として復活を遂げたのでした。

ハプスブルク家はヨーロッパの歴史には欠かせない存在であり、ヨーロッパの主役だったのです。

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