こめを重視した享保の改革
享保の改革は今から解説する幕府の改革の中では唯一将軍自らが行なった改革であり、それを指揮していたのがかの有名な暴れん坊将軍こと徳川吉宗でした。
元々徳川吉宗は紀州藩主として活躍しており、普通なら将軍になることができない立場だったのですが(だから名前に家がつかない)、第7代将軍である徳川家継が危篤状態となると紀州藩で改革を推し進めていた吉宗に白羽の矢があたり、第8代将軍に就任しました。
その後は、これまで膨れ上がっていた幕府の借金をなくすために紀州藩で行なっていたことと同様の改革を推し進めていくことになります。
まず、吉宗は紀州藩で行なっていた倹約令を発令。浪費癖があった家臣の生活を正していき、幕府の支出を引き締めていきます。
さらに吉宗は当時幕府の3分の2の費用を占めていた大奥にも手を出していき、なんと3700人ものリストラを決行。元々徳川宗家には関係なかった人だったことを利用して大奥の費用をコストダウンに成功しました。
上米の例・定免法など重農主義だった政策
享保の改革を一言で表すのであれば「米中心」これに尽きると思います。徳川吉宗はあだ名が『米将軍』と呼ばれていたように米に関する政策を推し進めていたのです。
まぁ、当時日本における税金はお米で支払っていましたしお米が経済の中心なんですが、どうしてもお米だと気候の変化によって年ごとにばらつきが出てきてしまいます。
そこで吉宗は定免法と呼ばれる法令を出しました。この法令は簡単に言うと「豊作でも不作でも払う年貢の量は一律にします」というもの。こうすれば幕府は気候によって左右されていた年貢の量を安定させることができ、幕府の財政もたてなおすことができたのです。
さらに吉宗はこれまでの将軍家では考えられない上米の令と言うものを発表。各大名に1万石の石高につき100石を幕府に納めることが決められ、幕府の財政をなんとか潤そうとしたのでした。
享保の改革の結果と影響
享保の改革によってある程度の幕府の財政の立て直しには成功しましたが、農民の生活はこれによって悪化してしまいます。
その理由が定免法だったのです。定免法は豊作の時はいいですけど、不作の時でもいつも通りの年貢を納めなくてはいけません。つまりはどんだけお米がなくても年貢は納めなくてらならず、これ以降全国各地で飢饉が頻発していくようになります。
さらに、上米の令によって幕府の権威の低下を招いてしまい、藩の力が強大化していくきっかけとなりました。
しかし、吉宗はこの法令だけではなく、さつまいもの栽培などによる飢饉の予防・公事方御定書による裁判の迅速化・目安箱を設置してある程度の民衆の意見を聞き入れるなどこれまでの幕府では考えられないような改革をしたのも事実でした。
改革を推し進めたけど堅苦しかった寛政の改革
寛政の改革は第11代将軍徳川家斉の老中であった白河藩主松平定信によって行われた改革のことです。松平定信を一言で表すのであれば『清廉潔白』その四字熟語のようにこの人は清廉潔白な政治を目指していき、さらに風紀を正していきました。
次は寛政の改革の内容とその結果について見ていきましょう。
災害対策と過密の緩和を図った改革
松平定信の寛政の改革の最大の特徴は災害対策と過密の緩和だったと私は思います。
当時江戸という街は今の東京とも比べ物にならないほどの過密ぶりだったそうで、このころのロンドンが大体人口が20万だったのに対して江戸は参勤交代などで出稼ぎに来ている人合わせて人口が100万人を越すメガシティでもあったのです。
彼はそんな過密すぎた江戸の人口を少しでも減らすために旧里帰農法と呼ばれる地方から来た農民にお金を与えて故郷に返すという政策を行いました。こうすることによって江戸の街の過密化を少しは抑えることができ、さらには帰った故郷で農作業を行うことによって納める年貢の量が多くなるというメリットがあったのです。
さらに定信は囲米という制度を義務化。各地の大名に対して蔵を作ってお米の貯蔵を行わせ万が一の飢饉や災害に備えることもし始めます。
ちなみに、この囲米は明治維新の時まで続けられていき、明治の改革の資金にもなっていました。
定信の政策が日本の近代化を支えたと考えると凄いことですよね。
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堅苦しくて失敗した寛政の改革
このように定信は農民のためのいろいろな政策を立てていき、幕府の財政を良くしていこうとしていましたが、彼のその清廉潔白な性格がどんどん民衆を苦しめてしまう結果となってしまいます。
定信は日本津々浦々にあるさまざまな学問のうち朱子学という学問を愛好していました。
これだけだったらまだ普通ですが、しかし定信の場合愛好するだけならまだしもその朱子学の勉強を強制化させていったのです。これを寛政異学の禁と言ったりしますが、つまりこれは朱子学以外の勉強は禁止ということ。例え国学や蘭学であってもです。
さらにこんな厳しい風潮は民間の方にも向かっていき、定信は江戸の風紀を乱す本を次々と発禁処分。滑稽本で一世を風靡していた山東京伝なんかも処罰されてしまい、江戸の町は一気に息苦しくなってしまいました。
そのためいつしか江戸の町には『白河の 清き水に 住みかねて 元の濁りの 田沼恋しき (白河藩主である松平定信の生活は厳しい 昔の田沼時代のことが恋しいなぁ)』という狂歌が詠まれるほど、定信の政策は民衆の生活を苦しめる結果となってしまいました。
最終的には定信は尊号一件と呼ばれる皇族に尊号を与えることを拒否した事件によって将軍にすらも嫌われるようになり、遂には失脚に追い込まれてしまい改革は失敗に終わりました。
いくら行いが良くても民衆のことを考えなければいけないというわけなんですね。