改革によって全国の民衆を苦しめた天保の改革
天保の改革は第12代将軍徳川家慶の時の老中水野忠邦が行った江戸三大改革の中では一番後に行われた改革のことです。水野忠邦の性格を一言で表すのであれば『過剰な男』その通り忠邦はいらないことを過剰にやりすぎで失敗してしまったのでした。次はそんな水野忠邦によって行われた天保の改革についてみていきましょう。
寛政の改革の踏襲なんだけど
天保の改革は寛政の改革の改革の続編と言ってもいいほど酷似しているものでした。
例えば水野忠邦は寛政の改革の時と同じく江戸の人口の増加を抑えるために農民を故郷に帰る人返し令を発令します。しかし、忠邦はよりにもよって帰るメリットであるお金を与えることをせずに強制的に帰らせるということをしでかしてしまったのです。そのため農民が帰ることはほとんどなく、効果は薄いものでした。
さらに忠邦は寛政の改革と同じように株仲間の解散をまたまたやります。株仲間の解散によって忠邦は物価の上昇を食い止めようとしますが、忠邦は株仲間が物の価格を上昇させていなかったという致命的なものを忘れており、株仲間が一括して行っていた流通ルートも破綻。それに合わせて物価も驚くぐらいの急上昇となってしまいました。
上知令と文化の規制で大崩壊
これだけでもこれまでの改革とは違い、効果が全く出ていませんが忠邦はそんなことはつゆ知らず。さらに寛政の改革の時に行われた風紀の規制も強行していきます。
忠邦は定信と同じように倹約令を発令し、贅沢な絹の織物や豪華なかんざし、さらには厚い化粧までもが禁止され、さらにはこれまでの化政文化と呼ばれる文化を引っ張っていた町人の文化である寄席や歌舞伎舞台などが贅沢だとして閉鎖。歌舞伎役者は江戸から追放されてしまいました。
これによってこれまで活気に満ち溢れていた江戸の町が火が消えたかのように消沈。忠邦の町人からの評価は大暴落してしまいました。
忠邦からすれば「町人から嫌われても側近から嫌われなければいいんだ!」みたいなノリだったと思いますが、さらに忠邦は上知令と呼ばれる命令を下してしまいます。
上知令とは簡単に言えば『江戸や大坂近くの領地を幕府のものにして元々治めていた大名を転封させる』というもの。
しかし、この無茶とも言えるような政策によって忠邦は町人だけではなく、一番大切にすべきだった武士や将軍にも嫌われてしまいます。
将軍に嫌われてしまった彼に行き場はなく、最終的には定信と同じようにクビとなってしまい、天保の改革は失敗に終わってしまいました。
お金が大事!重商主義だった田沼意次の改革
ここまで紹介いてきた中で改革といえば全て農民を故郷に返して田んぼを耕せさせたり、年貢の調節をして幕府の収入を増やしたりするなど農業に関する改革がほとんどでした。
実はこれには当時の日本には『お金を稼ぐのがいやらしい』という考え方が根強かったというものがあったからでした。そのため士農工商では商人が最後に来たり、商業に関する改革が全く行われなかったりするなど幕府は商人からお金を取る方法なんて考えたりしなかったのです。
しかし、とある1人の政治家は農民だけではなく、商人からもお金を取れば幕府の収入を増やすことができると築いていたいたのでした。
最後は江戸の改革の中でも特にお金を重視した田沼時代についてみていきましょう。
株仲間の設置
田沼意次の政策の特徴の一つに株仲間の設置というものがあります。株仲間という言葉は水野忠邦が廃止したことでも知られていますが、この株仲間という制度は例えば、お米を扱っている商人達にに対してその同業者とグループを組みそのグループごとに商売を行うというシステムです。
要するに一つの産業に対して一つの株仲間のみという形にしたのでした。
そうすると商人に何がいいのかというと商人たちが一つに集まることによって価格競争というものがなくなります。そのため安くしなくても必要不可欠な商品であれば誰もが買ってくれる。簡単に言えば商人にとんでもなく有利な形となることができるということです。
田沼は株仲間の設置を認める代わりにそこから株仲間に対して冥加金という商人に対する税金をかけて幕府の収入を安定させたのでした。
貿易の奨励と貨幣の統合
さらに田沼は株仲間の設置で商人から税金を取るだけではなくこれまで消極的だった日本の貿易を奨励。当時中国で人気だった俵物(アワビやフカヒレやナマコのこと)を大々的に輸出。
中国からの貿易利益を得ようとしたのです。そのため田沼は俵物が良く取れてさらにこれまで手をつけられていなかった蝦夷地(北海道)の調査を開始。のちに間宮林蔵や伊能忠敬が蝦夷地を調査する原点を作り上げたのです。
また、田沼はこれまで東日本と西日本でバラバラだった日本の通貨を統合。南鐐二朱銀という新しい貨幣を鋳造し始め、日本の流通をスムーズにしたのでした。