コルシカ島の貧乏貴族だったナポレオン
ナポレオンが生まれたのは1769年、当時フランス領に編入されたばかりであったコルシカ島の貴族の息子として生まれます。ちなみに父は判事であり親フランス派だったこともあって『新貴族』という形でフランスの貴族身分となっていました。
そんなどちらかといえば恵まれていたナポレオンは9歳になったばかりの1779年にコルシカ島からフランスの首都であるパリの神学校に通わせるためにコルシカ島からパリへとお引越し。
さらに神学校を卒業すると1784年に陸軍士官学校に入学。そこでナポレオンは類い稀ない才能を見せて本来なら4年をかけて卒業するところを僅か11ヶ月で卒業してしまったのでした。この頃から凡人とは違う才能を持っていたナポレオン。さすがですね。
若き軍人時代
こうして圧倒的な成績で陸軍士官学校を卒業したナポレオンでしたが、ナポレオンはそこでこの頃一番人気のなかった砲兵科を専攻していたこともあって砲兵隊長として任命されますが、その直後にフランス革命が勃発。
ナポレオンはそもそも革命に興味はありませんでしたのでその直後にパリを離れてコルシカ島に帰郷。しかし、この頃からコルシカ島では親イギリス派による独立運動が巻き起こっておりフランスの貴族であったナポレオン一家はコルシカ島から離れてフランス南部のマルセイユに移住しなければなりませんでした。
でも、ナポレオンはこのコルシカ島を追われてマルセイユへの移住したことはフランス革命政府から『貴族士官の亡命』として受け止められて何にもせずとも少佐レベルの地位まで上り詰めることに成功します。
さらに、1795年に革命を潰そうとしている王党派が反乱を起こすとナポレオンはあえてパリの中心街で大砲をぶっ放すという超大胆でワイルドな戦法を使い見事に鎮圧。軍人としてのキャリアを積んでいって師団陸将と呼ばれる今で言うところの方面軍大将レベルのホストまで昇進したのでした。
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確固たる地位を築いたナポレオン
こうして師団陸将と呼ばれる地位に就いたナポレオン。その役職に応えるが如くナポレオンは1796年からフランス革命を阻害していたオーストリア軍を倒すためにイタリアに出兵します。ナポレオンは常軌を逸した戦法を使うのが大好きな模様でなんとハンニバルやアレクサンドロス大王しか成し遂げたことがないアルプス山脈越えを行いオーストリア軍を急襲。北イタリアの領地を獲得してフランスの名将の地位を確固たるものにしました。
ちなみにそのアルプス山脈越えをしている姿を描いたのが皆さんご存知ダヴィド作の『ナポレオンのアルプス越え』。若き頃の凛々しい姿が描かれていますね。
さらにナポレオンはイタリア遠征の成功を受けて1798年にエジプト方面軍の大将としてイギリスの通商を阻害するべくエジプトに遠征。最終的にはイギリスの海軍に敗れたものの、確実な実績を積み上げていきました。
統領政府の誕生
1799年、エジプト遠征を終わらせてフランス本国に帰っていたナポレオンはフランスの政治を全て握っていた総裁政府をブリューメル18日のクーデターを起こし、総裁政府を打倒。新たにナポレオン中心とする統領政府を建てて自身は第一統領として独裁化を進めていきました。ちなみに、フランス革命の終わりはこのブリューメル18日のクーデターによって総裁政府が倒されたことによって終結されたとするのが一般的です。
統領政府ではナポレオンの国民の人気を上げるのとフランス革命の成果を見せつけるためにフランス国立銀行の設立や国立銀行設立による経済や産業の発展。さらにナポレオンの悩みの種であったイギリスともアミアンの和約を結び講和。イギリスは対仏大同盟を解散してフランスに一応の平和は訪れました。
ナポレオンの最盛期とヨーロッパ支配
こうしてフランス国内での人気や権力を握っていくナポレオン。そしてその動きはついにナポレオンが皇帝となる礎となっていくのです。次はナポレオンが皇帝になる瞬間とナポレオンがヨーロッパを支配するプロセスを見ていきましょう。
皇帝ナポレオン
アミアンの和約を結んで国内に平和が訪れるとナポレオンは一気にフランスを支配しようとしていきます。まず、ナポレオンはこの頃第一統領でしたが、1802年に1791年憲法を制定。自身を第一統領ではなく終身統領となり独裁を強化していきます。さらにその2年後にはナポレオンやナポレオンの子孫を皇帝にするかという国民投票を実施。圧倒的な賛成によって根拠を得たナポレオンは1804年12月2日にフランス人民の皇帝に就任。フランス第一帝政が幕が上がりました。
ちなみに余談ですが、このナポレオンの皇帝就任には一定数失望した人もおり、その中でもドイツのベートーヴェンは皇帝にナポレオンに幻滅。自身がナポレオンのために作った曲を破り捨ててしまったこともありました。
ヨーロッパを席巻していくナポレオン
ナポレオンが皇帝になったことによって焦り始めたイギリスなどの反フランス勢力は急遽アミアンの和約を破棄して第三次対仏大同盟を結成します。しかし、そんなことはあの天才軍人のナポレオンは許しません。すぐさま大陸軍と呼ばれる精強な軍隊を組織して東に進軍。
ウルム戦役にてナポレオンは電撃戦とも呼べることができるようなぐらい迅速な指揮を行いオーストリア軍を圧倒。2万人を捕虜にするという大勝利を上げ、さらにその直後に世界史の中でも特にカッコいい名前と言われているアウステルリッツ三帝会戦が勃発。ロシア・オーストリア帝国連合軍と対峙しましたが、この戦いにもナポレオンは圧倒的な軍事スキルを見せつけて圧勝。オーストリアを離脱させ第三次対仏大同盟を崩壊に追い込むことに成功しました。
ちなみにこのアウステルリッツ三帝会戦の時に勝利したフランスを記念してパリに建設したのが今では一二を争う観光名所であるあの凱旋門です。