ナポレオンのプロイセン侵攻
こうしてナポレオンはどんどんヨーロッパを蹂躙していくのですが、このイケイケのナポレオンはとどまるところを知らず、次はイギリスに変わって第四次対仏大同盟を結成したプロイセンを攻めていきます。
ナポレオンはアウエルシュタットの戦いにてプロイセン軍を撃破。その勢いのまま首都ベルリンを占領してプロイセン王国は崩壊。国王ヴィルヘルム3世は東プロイセンに逃亡してナポレオンはデイルジット条約にてプロイセンの領地の49%削減した上でさらにフランスの属国にすることに成功しました。
こうしてナポレオンは東のオスマン帝国、北のイギリスとロシア帝国以外のヨーロッパ全土を支配する一大帝国を築き上げたのです。
神聖ローマ帝国の崩壊とヨーロッパ支配
こうしてナポレオンはヨーロッパのほとんどを支配するに至りましたが、ナポレオンは支配した領土を直接支配することはせず、兄をナポリ王に、弟をオランダ王にするなど親族に支配させてナポレオンの親族によるネットワークを築き上げます。さらに、オーストリアとプロイセンがこれまで支配していた神聖ローマ帝国領内の諸侯に対してライン同盟として保護国化に仕立て上げました。
こうしてドイツ領内の影響を全て失ったオーストリア皇帝フランツ2世は神聖ローマ帝国皇帝を退位。オットー1世より約900年続いてきた神聖ローマ帝国はここに滅亡したのでした。
大陸封鎖令の発布
こうしてオーストリアとプロイセンを撃破したナポレオン。しかし、ナポレオン率いるフランス軍は陸戦では最強と言えるぐらいの常勝軍団でしたが、海軍となると元々海賊を従えており世界最大の海軍を持つイギリスに敗北。トラファルガー海戦ではネルソン提督率いるイギリス海軍に完敗するなどあまりぱっとする結果ではありませんでした。そこでナポレオンはイギリスを弱らせるためにベルリンにて大陸封鎖令というものを発布します。この法令は簡単に言えば『イギリスと貿易するな』というものでイギリスを締め出してフランスの商品を売りやすくしようとしたものです。
ナポレオンはこうすることによってイギリスは音を上げて降参するだろうと考えていたそうですが、これがナポレオン最大の誤算になってしまったのには気づくはずもありませんでした。
ナポレオン帝政の崩壊
こうしてナポレオンはプロイセンを従属させ、さらにドイツ・イタリア・スペインなどヨーロッパのほとんどを支配しました。しかし、ナポレオンの活躍もここまでここから嘘のように転落していくのです。次はナポレオンがどのようにして全盛期から転げ落ちていったのかを見ていきましょう。
全てのほころび【スペイン戦争】
1808年、フランスの従属国であったスペインにて反乱が起きてしまいます。これに対してナポレオンはすかさず反応。スペインの反乱に介入してどさくさに紛れてナポリ王だった兄をスペイン王に仕立てて支配させます。
しかし、これに対してスペイン国民は大激怒。マドリードにて蜂起してフランス軍を一気に攻め立ててフランス軍を降伏に追い込むことに成功します。これはナポレオンのフランス軍が初めて負けた陸戦であり、その後フランスの凋落を決定づける戦争でもあったのです。
そしてスペインにてフランスが負けたことを受けてオーストリアが第5次対仏大同盟を結成。これに対してナポレオンはヴァグラムの戦いでオーストリア軍に勝利はするものの、かつてのあの圧勝はもはやどこにも無かったのです。
紅蓮の炎と雪【ロシア遠征】
オーストリアになんとか勝利して第5次対仏大同盟を消滅させたのはいいものの、ナポレオンの活躍は陰りを見せていきます。そんな中でイギリスとロシアが秘密裏に貿易をしていることをキャッチ。怒ったナポレオンはロシアに向けて60万の超大軍で侵攻し、ロシア遠征が始まりました。ナポレオン率いる大陸軍は最初の頃は快進撃を続けていましたが、いざロシア帝国内に入るとガラガラ状態。「なんだ。大したことないじゃないか」とナポレオンは思ったはずですが、実はこれにはロシアの恐ろしい罠が隠されていたのです。
ロシアの将軍ミハイル・クトゥーゾフはナポレオンと真正面から戦ったら必ず負けると確信していました。そこでロシアは国土が馬鹿でかいということを利用して徹底的に後退するという戦術をとったのです。こうして後退戦術によって大陸軍はついにこの時はロシア第二の都市のモスクワに入城。しかし、何もないロシアの地に大陸軍は耐えることができずにどんどん脱落。この時にはもうすでに40万の兵士が倒れていたのです。
でも、ナポレオンからすればたとえ40万の兵士が死んだとしてもモスクワさえ押さえれば勝てると思っていたでしょう。しかし、ロシア帝国は最後の手段焦土戦術を使いモスクワを紅蓮の炎で燃やし尽くします。モスクワの食料はモスクワの街ともに消滅。さらにロシアに大寒波が訪れナポレオンは仕方なく撤退。ワルシャワに着いた時には最初60万人いたのが3千人までに減ってしまい、ナポレオンはパリに帰ると非難轟々の嵐にあってしまったのでした。