インディアンが平和に暮らしていた時代
ヨーロッパ人が南北アメリカ大陸を発見する前、ここではインディアンと呼ばれる人たちが平和に暮らしていました。インディアン達は特に何も争うことはなく、部族ごとに集まって生活している様子だったそうです。インディアン達は原始的な生活を送っていたみたいでミシシッピ川のほとりにはインディアン達がこの付近に文化を形成し、今ではその文化の跡が世界遺産に登録されるなど観光地化もしています。
あ、ちなみにインディアンという名前はインドから来ているんです。でもなんでアメリカの人たちがインドの人って呼ばれたのでしょうかね?実はそこにはアメリカ大陸を発見したコロンブスという人のとある野望が理由でした。次はそんなコロンブスによるアメリカ大陸の発見を見ていきましょう。
コロンブスの野望
アメリカ大陸で原始的な文化が作られていた15世紀。この頃のヨーロッパではルネサンスと呼ばれる古き良きヨーロッパ文化を再び振興しようぜ!という運動が行われていました。そんな中ヨーロッパではマルコポーロの『東方見聞録』に書かれている黄金の国ジパング(日本のこと。JAPANはここから来ている)や肉を保存するために使われる香辛料を求めてインドや中国、そして日本を目指してこの頃発明された羅針盤を片手に航海をする大航海時代の幕が上がったのです。
そんな大航海時代が行われたある時、イタリアのジェノバと呼ばれる所で生まれたコロンブスは黄金の国ジパングに憧れを抱いていました。「黄金ていっぱいの国に行ってみたい!」いや…行くのは自由ですけどこの頃の日本は応仁の乱が起こっていた戦乱の時代ですよ…それはそれでいいんですけどその思いに駆られたコロンブスは当時航海の先進国であったポルトガルとスペインに売り込みを開始。ポルトガルにはあっけなく断られてしまうのですが、スペイン王国のイザベル女王はこの売り込みに興味を持ち、「この頃スペインで行われたレコンキスタを終わらせたらこの案を採用するね」とアポを取ることに成功します。こうしてスペインのバックアップを得たコロンブスはレコンキスタが終わった直後の1492年、黄金の国ジパングてへと旅立っていったのでした。
こちらの記事もおすすめ
戦国時代のきっかけに!対立構造が複雑な【応仁の乱】についてわかりやすく解説 – Rinto~凛と~
アメリカ大陸の発見
こうして始まったコロンブスによる大航海。目的地はもちろんインドと日本なんですが、コロンブスはあろうことか西回り航路を採用してしまったのです!要するに西に向かってレッツゴーしたのですが、西ってそのまま行くとインドや日本に到達する前にアメリカ大陸にぶつかってしまいます。普通なら逆の東回り航路を採用すればいいのですが、これには実は裏がありましてコロンブスの意見をはねのけたスペインのライバルであるポルトガルがこの東回り航路を採用していたのです。
スペインからしたら東回り航路を選択したら「スペインはポルトガルの後を追っているんだ~ ダサ~い」と言われかねません。そこでスペインは西回り航路に力を入れることになったのですが、案の定、コロンブス御一行はインドに到達する前にサン・サルバドルに到着。「やったインドに着いたぞ!」そう謎の根拠で確信したコロンブスはこの土地に住んでいる人をインディアンと名付け、この島を探検しました。この島はインドではないんですけどね。ちなみに、このコロンブスが到着した新しい島はその後インドと間違われたことを理由として西インド諸島と今では言われています。
アメリカの植民地化
こうして偶然にも発見されたアメリカ大陸でしたが、これを受けたヨーロッパの探検家達はコロンブスがついた島はインドではなく新しい土地だ!と予想して西回り航路を使って新しい大陸を探し当てていきます。1498年にはイギリス人のジョン・カボットが東海岸に到着。この付近の土地をイギリス植民地として宣言して領有化します。
また、イギリスのライバルであるフランスもセントローレンス川付近の領地を領有化して植民地としました。こうして新しく発見されたアメリカ大陸はオランダのニューアムステルダム(今のニューヨーク)やスペインのフロリダ半島など川や海付近を中心にさまざまな国が競うように植民地化していったのです。そして時代が流れると七年戦争やインディアンが反抗して起こったフレンチ・インディアン戦争などさまざまな戦争が起こり、そのどさくさに紛れてイギリスが次々と他の国の植民地を強奪。インディアンを西に追いやって東海岸に13の植民地を作り、イギリスの影響下に置きました。
こちらの記事もおすすめ
今さら聞けない「大航海時代」ってどういう時代?わかりやすく解説 – Rinto~凛と~
アメリカ独立革命
こうしてアメリカの覇権を一気に握ったイギリスでしたが、ヨーロッパで七年戦争と呼ばれる一大戦争が起こると状況は一変していきます。七年戦争以降イギリスでは戦争の戦費による財政難になってしまい、どうにかしてお金を調達しなければいけなくなりました。その時に目を向けられたのが植民地だったアメリカ。イギリスはアメリカに対していろんなものに対して税金をかけるようになり、お金を搾取していくようになります。しかし、いくなんでもいろんなものに対して巨額の税金をかけられたら植民地側も黙ってはいません。「代表無くして課税なし」と声高々に宣言してさらにイギリスがアメリカに対して茶税をかけるとボストンにてボストン茶会事件が発生。イギリスとアメリカの対立はエスカレートしていきついに1775年に戦争に突入。アメリカ独立戦争が始まりました。アメリカ独立戦争は最初の頃は世界最強の軍を持っていたイギリスに苦戦します。しかし、義勇軍の参加やイギリスと敵対していたフランスの支援、さらにスペインとオランダもアメリカ側について状況は一変。
1776年7月4日にはアメリカ独立宣言を発布してイギリスからの独立を宣言し、アメリカ独立軍は一気に巻き返し始めます。そしてヨークタウンの戦いでイギリスに対して決定的な勝利を収め1783年ついにアメリカはパリ条約にて独立を果たしました。
アメリカの政治の仕組み
アメリカの独立後の歴史を見る前にまずはアメリカの政治体制についてちょっと見ていきましょう。アメリカという国は共和制。つまり王様や皇帝はおらず、選挙で選ばれた国民がリーダーとなる仕組みとなっていました。
さらにアメリカの政治の独立なシステムの一つとして州の権限が強いというところもありますが、それは独立宣言の時にアメリカ連合規約というものを結んだ時に「それぞれが独立した国だったけどアメリカに一つにしたよ」という宣言の名残というわけです。また、アメリカはこの時の世界では珍しく憲法の中に基本的人権の尊重や不当な逮捕を禁止するなど近代的な内容を含むものばかりでありまさしくアメリカは異色の国家とも言えるような国だったのでした。(フランス革命が起こるのはワシントンが初代大統領になった1789年)
アメリカの領土拡大
アメリカが独立した時ヨーロッパではとあるとんでもない革命が起きていました。そう、皆さんご存知フランス革命です。フランス革命の時イギリスはもちろん反革命側。フランス革命を潰そうとヨーロッパの王国を集めて対仏大同盟というものを結成したりしていました。
しかし、ナポレオンがフランスを牛耳っていくようになると話はどんどん変わっていきます。ナポレオンはフランス陸軍を率いてどんどんヨーロッパを蹂躙。オーストリアやプロイセンなどを潰してまわり、島国であったイギリスは大陸封鎖令というものを発令してイギリスを貿易できなくするなど締め付けます。これに反抗してイギリスもアメリカとフランスの貿易の阻害をするようになり、これに対してアメリカは大慌て。アメリカ側は対策を考えなければいけなくなりました。
アメリカは最初はイギリスに譲歩してなんとか難局を抜け出そうとしますが、タカ派(強硬派)の政治家が台頭するとイギリスとの戦争に踏み切ります。これがいわゆる米英戦争と呼ばれるものなんですが、この戦争はアメリカは判定勝ち。なんとかイギリスの貿易阻害を辞めることに成功してアメリカはイギリス側に付いたインデアンたちを続々と滅ぼしていき領土を拡大。1818年にはアメリカの新領土とイギリス領カナダの国境を北緯49度として、さらに1819年にはアメリカ南部のフロリダを獲得。1845年には元々アメリカとは別の独立国であったテキサスを併合してそれに反発していたメキシコに米墨戦争に勝利。1848年にカリフォルニアなどの西海岸を獲得してついにアメリカの領土は西海岸まで到達しました。
こちらの記事もおすすめ
世界を大きく変えたフランスのビッグウェーブ!フランス革命について解説 – Rinto~凛と~