安土桃山時代日本の歴史

黄金王「豊臣秀吉」と数寄者「千利休」の関係とは?わかりやすく解説

奈良県から和歌山県にあたる地域を治めた秀吉の弟、豊臣秀長は九州の戦国大名の大友宗麟に「内々の儀は宗易(千利休のこと)、公儀の事は宰相(秀長のこと)存じ候、御為には悪しき事はこれあるべからず候」と伝えたといいます。豊臣政権のナンバー2と同列に扱われた千利休。彼と豊臣秀吉はどんな関係だったのでしょうか。

織田信長の家臣としての秀吉と利休

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羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と千利休はともに織田信長に仕えていました。片や尾張の農民出身の秀吉、片や堺の商人で茶人の千利休。彼らはどのようにして織田信長に仕えていたのでしょうか。秀吉、利休のそれぞれの経歴と信長が始めた「茶の湯御政道」の仕組み、さらには彼らの運命を大きく変えた本能寺の変について触れていきます。

農民から一国一城の主に上り詰めた羽柴秀吉

農民出身の秀吉は信長に仕えることで徐々に出世していきます。大きく飛躍するきっかけは美濃攻略戦です。築城困難といわれた墨俣(すのまた)に城を築き、美濃の斎藤氏を滅ぼすことに大きく貢献しました。

その後、一度は織田と同盟を結びながら裏切った北近江(滋賀県)北部の浅井氏を滅ぼすときにも活躍し、浅井滅亡後には北近江を与えられ長浜城の主となりました。

いかに下剋上といっても、農民出身者が一国一城の主まで昇りつめるのは珍しいです。それだけ、信長の信頼が厚かったことがわかります。本能寺の変の直前には中国地方遠征軍の司令官に抜擢され毛利氏と戦っていました。織田家でも5本の指に入る武将へと成長したのです。

自治都市堺の商人、千利休

千利休は堺の商家に生まれました。本名は田中与四郎。のちに千宗易を名のります。利休の名は正親町天皇から与えられました。商家の跡取りの教養として茶の湯を学びます。父や祖父を相次いで亡くすも、商才を発揮して財を成しました。

堺は諸大名の支配をうけない商人たちの自治都市でした。堺の富に目を付けたのが信長です。信長は堺に圧力をかけ自分の支配下に置きました。信長は今井宗久や津田宗及ら堺の豪商たちを茶頭として召し抱えました。その時、利休も召し抱えられます。こうして、千利休は信長の茶頭として仕えるようになりました

信長による「茶の湯御政道」

信長は茶の湯を政治に利用します。信長は近畿地方を制圧すると各地から有名な茶道具を半強制的にかき集めました。これを「名物狩り」といいます。

これらの茶器は信長主宰の茶会で披露され、信長の権威づけに利用されました。また、信長から茶道具を与えられることは大変な名誉とされ、明智光秀や羽柴秀吉などの有力武将は領地をもらうこと以上に茶器を与えられることを喜んだといいます。

権力者である信長が奨励した茶の湯。その茶の湯で茶会を取り仕切る千利休ら茶頭の権威は大きく高まったのです。

秀吉と利休の運命を変えた本能寺の変

秀吉と利休の運命を大きく変えたのは本能寺の変です。1582(天正十)年、織田家でも最有力武将の一人だった明智光秀が京都の本能寺に宿泊中だった織田信長を襲撃して殺害、子の信忠も同時に討ち取りました。

この時、主だった信長の家臣はそれぞれの敵と戦っていて簡単には動けない状態でした。また、同盟者である徳川家康は堺見物をしていて敵討よりも自分の安全確保が精いっぱいだったのです。いち早く動いたのは秀吉でした。秀吉は毛利氏と和睦し京都南部の山崎の地で明智光秀を打ち破ります。こうして秀吉は天下人になる第一歩を踏み出しました。

一方、茶の湯にとっても本能寺の変は重大事件です。信長は本能寺で茶器の披露をしていました。本能寺の変の結果、信長が持っていたコレクションの大半が失われます。信長の茶頭であった千利休はかろうじて難を逃れました。利休は新たに天下人となった秀吉に仕えます。

利休、天下人秀吉の茶頭となる

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本能寺の変の後、主導権を握ったのは羽柴秀吉でした。清須会議で織田家の跡取りを幼い信忠の子と決めそれに反対する重臣筆頭の柴田勝家と賤ヶ岳(しずがたけ)で戦い勝利します。

徳川家康との小牧長久手の戦いでは手痛い敗北を喫しますが、その後の外交でもりかえし家康を配下とすることに成功。秀吉は着実に天下人への道を歩みました。一方の千利休は秀吉の茶頭として茶の湯を完成させていきます。

秀吉と利休の接近~北野大茶会の開催~

千利休が秀吉の茶道となったのは本能寺の変のあとのことです。1584(天正十二)年、秀吉が築城した大坂城内に茶室を造営。その時に3000石の領地を秀吉から与えられました。

1585(天正十三)年、秀吉が正親町天皇に茶を献じるときにも活躍。1587(天正十五)年の北野大茶会の主催など、秀吉にとって利休は欠かせない人物となっていきました。北野大茶会は九州平定を終えた秀吉が京都の北野天満宮で開催した大茶会です。千利休をはじめ津田宗及、今井宗久らも茶頭として参加する大イベントでした。

北野大茶会が開かれたころが秀吉と利休が最も良かったころだと考えられます。秀吉の政治にも深くかかわり、豊臣秀長に「内々の儀は宗易(千利休)」に尋ねよといわれるまでになりました。

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