土方歳三はどんな少年だったの?
土方歳三(以下、歳三)は、天保6年端午の節句である5月5日に、東京都日野市の石田という村で10人兄弟の末っ子として生まれます。お父さんは生まれる前に結核で亡くなって、お母さんも5歳の時に結核で亡くなってしまったのでした。この時代は結核で亡くなる人が多かったのですね。長男の為次郎が生れつき目が不自由でしたので、次男の喜六夫婦に育てられたのですね。
農民でしたが「お大尽」と呼ばれるような豪農の家でした。この地方の一帯は元々戦国武将の武田家の家臣の子孫で、徳川家の家臣になったことから「なにごとかあったら、自分たちは徳川家をまもる」という気風がありました。歳三も少年の時から「武士になりたい」と思い、庭に弓矢の矢を作る矢竹を植えてたのが現在も残っていますよ。
土方歳三は奉公で大失敗
しかし夢は夢で、11歳の時に「松坂屋(現在の松坂屋上野店)」に奉公にいくこととなったのですね。今でも殘る松坂屋は丁稚奉公からはじまって、ゆくゆくは店の番頭や支店をまかせられる人しか奉公ができません。お大尽といわれたくらいの家でしたから、歳三の家は奉公できる基準にかなっていた家だったのでしょう。
最初の5年は家に帰ることもできない決まりですが、ささいなことで番頭さんとケンカになって飛び出して、40キロも離れている日野まで夜通し歩いて帰ったといいます。子供なのになかなかの根性がありますね。帰ったら兄たちから怒られて帰るように言われますが「帰らない」の一辺倒で、とうとうあきらめられて、最初の奉公は終わりました。
青年になってくるといつまでも家にというわけにもいかず、兄たちが再び松坂屋に頼みに行きました。そして支店である小伝馬町にある「木綿問屋亀店(かめだな)」に奉公することになります。「歳三さんはハサミの使い方が上手」という話が残ってますが、ここで覚えたのかもしれませんね。残っている写真でもわかるように、現代でも通じるくらいのイケメンですから、女性達がほおっておくわけがありません。そのうち女中のひとりと恋仲になってしまい、妊娠させてしまったのでした。結婚を迫る女性のことを兄たちに相談すると大反対され、別れさせられ、奉公は終わってしまったのですね。
バラガキと呼ばれた土方歳三
歳三の剣術は我流だといいます。行商をしながら薬箱に剣道道具をくくりつけて、あちこちの道場へ行っては稽古(道場破り)をつけてもらいました。そして散々打ちのめした相手に、打ち身に効く石田散薬を売りつけるということをしていたのです。これはダメでしょう的な商売のしかたにしかみえませんよね。皆から「バラガキ(ヤンチャ小僧)」と呼ばれてましたよ。
この頃の日野を含む多摩地方は、日米和親条約から交易がはじまって以来、地場産業の絹が人気で飛ぶように売れ裕福でした。しかし、そうなると金目の物を狙って農家に強盗が入るなどが頻繁に起きるのは世の習い。そこで義兄で名主の佐藤彦五郎は「役人なんかは役に立たない」と自衛のために道場を作り村人達に剣術を慣わすことに決めました。多摩出身で「試衛館」という剣術道場を開いている近藤勇が出稽古にやってきていました。よくドラマや小説などで、歳三と近藤勇が幼なじみというのがほとんどなのですが、実際に出会ったのは佐藤家の道場といわれています。近藤勇は行商をしながら剣術修行をしている歳三に「道場に来ないか」と誘ったのですね。安政6(1859)年3月29日歳三は試衛館のに入門して居候(剣客)となりました。
土方歳三は京都へのぼる
アメリカからペリー提督がやって来てからの開国以来、不穏な空気に包まれている日本に、たくさんの人たちが「日本のために自分でも何かができるかもしれない」という気持ちが持ち上がっていきます。近藤勇もそういう気持ちが強かったので、京都に上洛する将軍を警護するために、幕府が腕自慢ならば誰でも参加できるという浪士隊へ歳三たち門弟をつれて参加することとなりました。歳三は長兄がすすめて婚約していた三味線屋の娘で美人の「お琴」を多摩において出発することになったのですね。
雲行きがおかしい浪士隊
文久3年(1863)2月8日、小石川にある伝通院に集まったものの、なぜか将軍警護のはずが将軍とは行動が別で中山道を行くことになったのですよ。おかしなものだと思いながらも浪士隊は出発しました。近藤勇は一行より先に行き宿屋を割り振るという仕事を任されました。234名の武士から浪人から町人はてはヤクザまでを割り振るのは大変だったでしょう。本庄宿で大失敗をしてしまったのですね。
尊皇攘夷運動で有名だった水戸天狗党だったという「芹沢鴨」という人の宿を取り損ねてしまったのです。浪士隊の中でも強面で、まわりの人たちも気を遣っている人でしたので大変!おまけにヘソを曲げて「野宿するからほっといてくれ」と宿場の真ん中で大焚火を始めてしまったのですよ!焚火の前で土下座するという事態になってしまったのですね。しかし、この出会いが歳三たちの運命を変えていくなど誰も知るよしもありません。
壬生浪士組誕生!
京都に着くと、この浪士隊は実は幕府を騙して自分の兵を作ろうとしていた「清河八郎」という人の陰謀だと判明しました。真っ先に反対をとなえたのは、間違ったことは許すことができない近藤勇だったのですね。もちろん歳三はじめ、門弟の井上源三郎・沖田総司、剣客だった山南敬助・原田佐之助・永倉新八、伊東道場の門弟ながら一緒にやってきた藤堂平助の仲間も賛同。芹沢鴨たちも賛同してくれたのですよ。
路頭に迷うところを浪士隊の監視をしていた佐々木只三郎(元々は会津藩の人でしたが、旗本の家に養子に入った人)が、京都守護職に就任していた会津藩の配下になるように手配してくれます。清河八郎に反対して幕府のために働こうとしている姿を認めてくれたのでしょう。有名な浅黄色の隊服は大丸で作られましたが、最初はみんな着ていたようですが、だんだんダサイと着なくなったという話が残ってますね。最初のうちはお金がなく、多摩の人たちから仕送りをしてもらったり、芹沢鴨が強引に借金などをしていたようですね。その芹沢鴨のやり方がどんどんエスカレートして、会津藩から粛清の命令が下ってしまったのですよ。
新選組誕生!
新選組という名前は、朝廷から賜ったという説と、会津藩主の松平容保から拝命されたという説がありますね。芹沢達を暗殺して、近藤勇が局長となり、歳三は副長となりました。隊士たちへの直接の指揮権は歳三が行うことになったのです。上にも書きましたが、へたをすると烏合の衆に近いものでしたので「武士よりも武士らしく」ということから「局中法度」という規則を作り違反したら「武士の名誉の死に方である切腹」という罰則をつけたのですよ。その姿は厳しく、たとえ幹部でも冷静に処断する姿に「鬼の副長」と呼ばれ恐れられるようになってしまったのですね。