幕末日本の歴史江戸時代

義に生き義に散った「土方歳三」その一生をわかりやすく解説

一躍有名になった池田屋事変

治安維持に働いていた新選組ですが、イメージだと不逞浪士たちを斬りまくっているイメージがあるでしょう?しかし、ほとんど場合はおおぜいの隊士達で捕縛していたそうで、斬るという時はこちらが小人数で相手が多勢の時ですね。一躍有名になったのは「池田屋事変」。元治元年6月に炭屋を営んでいる枡屋の主人が、実は古高俊太郎という攘夷浪士であることを突き止めました。捕まえてみると倉庫の中は炭ではなく武器弾薬が山積みとなっていて、尋問することとなったのですね。

なかなか白状しない古高俊太郎に、歳三は逆さづりをして足の甲に五寸釘を打ち付けて、その上にロウソクを立てて火をつけるという凄まじい拷問をしました。さすがの古高俊太郎もたまらなくなり「風の強い日に京都に放火して、敵対する人たちを暗殺して、天皇を長州に連れて行く」という計画を白状しました。すぐにこのことは会津藩に報告されます。そして監察方が古高俊太郎が捕まったことから不逞浪士たちが集まって、奪還する話し合うという情報がきたのですよ。

ドラマとか小説などでは「池田屋か四国屋」ということになっていますが、本当は場所がわからなかったようで、会津藩と合流する時間も会津藩が遅れてきたのではなく、新選組のフライング出動でした。近藤班と歳三の班に分かれて鴨川の両岸の旅館を片っ端から調べたようですよ。そして少数しか連れていなかった近藤班が池田屋に到着したのですね。近藤勇は歳三達に知らせると同時に、沖田・永倉・藤堂の4人で20人以上いる不逞浪士の中に斬り込みます!

途中で持病の労咳(結核)で吐血をして動けなくなった沖田と、ケガで動けなくなった藤堂。結局は永倉と2人きりで戦うことになってしまったのですよ。真っ暗だったから相手もまさか2人だとは思わなかったでしょう。斬り合ったり逃げ出したりします。そこへ歳三達が駆けつけました!そこから斬捨て命令が捕縛命令と変わったのですね。歳三は後から来た会津藩兵たちに手柄を取られないように中にいれなかったといいます。そのため報奨金はたいそうな額だったのですね。

新選組全盛期の土方歳三

隊内では鬼と言われていた歳三ですが、新選組が有名になっていき経済的にも安定していくと遊びにも行くことがありますよね。イケメンなので舞妓さんや芸者さんたちからモテまくって、そのラブレターを故郷に「めったに拝めないもの」と送っていますよ。多摩の人たちに対しては昔ながらのバラガキの歳さんだったのですね。

新選組は人斬りといわれていますが、実際には規則違反した隊士達の処断が死亡第1位でした。中でも江戸以来の盟友である山南敬助は、藤堂平助の師匠である伊東甲子太郎が入ってより居場所がなくなり脱走して切腹となり、その伊東甲子太郎が「御陵衛士」という名前で分かれたのも壊滅していますね。山南敬助を断罪しなくてはならなかった原因の伊東甲子太郎は斬りたかったようですが、藤堂平助は逃がしたかったようですよ。

もう剣の時代ではない

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慶応3年(1867)6月に近藤勇と歳三は幕臣にとりたてられましたが、その年の10月に15代将軍徳川慶喜が大政奉還をして、幕府は崩壊してしまったのですよ。慶応4年(1868)とうとう鳥羽伏見で朝廷についた軍勢と幕府軍が衝突して「戊辰戦争」が始まってしまったのですね。歳三は狙撃されて重傷を負った近藤勇にかわって全面指揮を行うものの、最新式の銃や大砲を持ち洋装の軍服で身軽な兵達にはかないません。たくさんの仲間たちを失いながら大坂城まで引き上げます。その時に「もう剣の時代ではない」と歳三は言ったのでした。

近藤勇との別れ

江戸に帰った歳三は、横浜で洋装の軍服をしつらえ、髪の毛を短髪にしました。残っている写真のスタイルですね。新しい物いいものはすぐに取り入れる歳三らしいですね。新選組は「甲陽鎮撫隊」と名前を変えて甲府城を目指しますが、1日の差で板垣退助率いる軍に城を占拠され、歳三は神奈川まで馬を走らせて援軍を頼みましたが断られてしまったのでした。敗退した新選組は流山で再起をはかることにしました。軍事演習でほとんどの隊士が留守の時に新政府軍に包囲されてしまい、近藤勇は投降してしまいます。最初は切腹をすると言っていたのを歳三がとめたという話ですね。すぐさま歳三は勝海舟のところへ行って助命嘆願を頼みに行きますがかなわず、近藤勇は板橋で斬首されてしまったのですよ。助命嘆願に行く時に歳三は、隊のほとんどを斉藤一に任せて会津に向かわせ、自分は江戸から敗走する旧幕府軍と行動を共にして戦い続けるのでした。

土方歳三は新天地へ行く

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歳三は難攻不落といわれている宇都宮城を落としたものの、反撃され足に大ケガをしたので会津まで行って療養することになりました。会津では斉藤一を中心に新選組は会津の兵士達と戦っていたのですね。会津藩藩主の松平容保は近藤勇の死を悼んで墓を建ててくれます。歳三も傷が治ると参戦しますが、新政府軍は会津は京都守護職だったために恨みがあり、奥羽の諸藩からの嘆願もむなしく総攻撃をしかけてきたのですよ。歳三は奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)のかなめである仙台へ援軍を頼みに行くことにし、なにかがあれば仙台で落ち合う約束をします。しかし会津藩は落ちて、奥羽越列藩同盟も解体していく中で、まだ諦めない人物がいました。その男は榎本武揚。行き先は北海道の箱館!そこで旧幕府の人たちを集めて新しい政府を作るというのでした。

土方歳三最後の戦い

慶応4年10月20日に北海道の鷲ノ木に上陸した歳三達は、箱館にある洋式の城である五稜郭を占拠して箱館共和国を作ったのですね。北海道の冬は厳しく西日本の藩が中心の新政府軍は攻撃してきません。春まで少しの間の休憩をとることができました。歳三は政府の陸軍奉行並という幹部となり、陸海軍裁判局頭取と箱館の街を整備と警護する仕事をすることとなります。この頃には京都での鬼の仮面はすっかり取れて、隊士達は母親を慕うように歳三に接してきたといいますね。宮古湾に停泊していた、幕府がアメリカに発注していた鋼鉄鑑が新政府軍のものとなっていたので奪いに行きますが敗退。多勢の戦死者がでてしまったのですね。

明治2年(1869)4月9日、とうとう新政府軍が上陸しました。歳三は二股口で奮戦し勝ち続けていましたが、勝っているのは歳三の隊だけで、松前口が突破されたことから挟み撃ちになるのを避けて五稜郭に戻らなくてはならなくなります。そして5月11日。新政府軍の箱館総攻撃が始まり、弁天台場に取り残されている新選組を救うために歳三は出陣したのです。一本木関所で新政府軍と激突「去る者は斬る!」と言いながらの混線の最中、歳三の腹部に銃弾があたり落命してしまいました。箱館共和国の幹部で唯一の戦死者だったのですよ。

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紫蘭