父を早くに亡くし、兄をよりどころとして生きた少年時代
十河一存は、後に「最初の天下人」と呼ばれることもある三好長慶の弟として生まれました。父は彼が生まれた年に自害に追い込まれ、一存は母や兄弟と共に阿波(あわ/徳島県)に落ち延び、息をひそめて生活することとなります。しかし、成長して才能を発揮し始めた兄の政策の一環として、一存は十河氏に養子入りすることとなりました。ここでは、少年時代までの一存の様子をご紹介したいと思います。
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生まれた時にはすでに父は亡くなっていた
十河一存は、天文元(1532)年、三好元長(みよしもとなが)の四男として生まれました。上には兄が三人おり、上から三好長慶、三好実休(みよしじっきゅう)、安宅冬康(あたぎふゆやす)です。
父・元長は、室町幕府将軍とナンバー2である管領(かんれい)にまつわる権力闘争の中から頭角を現し、細川晴元(ほそかわはるもと)の傘下として一大勢力を築き上げました。しかし、その力に危機感を持った主君・晴元や同僚たちによって策にはめられ、敗れて自害してしまいます。
身の危険を感じた母や兄たちは、阿波に落ち延びましたが、これがちょうど、一存の生まれた年でした。父の死の直後、彼はおそらく母のお腹の中にいたと思われます。このため、父の顔を知らずに育つこととなりました。
頭角を現した兄・三好長慶
一存の兄・三好長慶は、10代前半から頭角を現し、かつて父を死に追い込んだ細川晴元が手を焼いた一向一揆(いっこういっき)との和睦を仲介するなどして、晴元のもとに帰参します。すでにこの時、長慶には天下人となる素養があったのでしょう。
その一方で、長慶は三好氏の本拠地である四国での勢力拡大にまずつとめ、弟たちを周辺豪族に養子に出し、姻戚関係を結びました。一存の三番目の兄は安宅氏に、そして一存は十河氏へと養子入りし、おのおのの武士団を束ね、兄を支えることとなったのです。
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十河氏へ養子入りする
一存が養子入りした十河氏は、讃岐(さぬき/香川県)の十河城(そごうじょう/香川県高松市)を本拠地としていました。当主・十河景滋(そごうかげしげ/別名は存春/まさはる)は、嫡男を享禄3(1530)年ごろ失っており、一存は養子となるのにちょうどいい年頃だったようです。
三好元長の息子たちが軒並み優秀で、なおかつ兄弟の絆が強かったことは、戦国時代でも珍しい例でした。やがて元服を迎えた存保は、兄のもとに残った実休や、安宅氏に養子入りした冬康らと共に、やがて兄の躍進の原動力となっていくのです。
すべては兄を支えるため!他の兄弟と団結して戦に臨む
一存は、三好実休や安宅冬康らと共に、長兄の長慶を軍事面で大いに援護しました。兄弟ならではの団結力の強さを発揮し、ついに兄が政権をほぼ手中に収めることに大きな貢献を果たします。一存が武将として最も充実していた時期は、「兄のため」の一言に尽きるのです。
兄の政権樹立に至る戦いに参戦
父の仇に等しいとはいえ、当面の間は細川晴元に従い、その下で力をつけてきた長慶は、天文18(1549)年、江口の戦いで三好政長(みよしまさなが)と対決します。三好政長は同族ですが、細川晴元の政権下でのライバルで、かつて父・元長を自害に追い込んだ相手でもありました。長慶は幾度となく晴元に対して政長誅殺を進言していましたが、受け入れられず、ついには晴元と敵対する細川氏綱(ほそかわうじつな)と結び、反旗を翻したのです。
この戦いで一存は弱冠18歳ながらも活躍し、勝利に貢献します。すでにこの時、勇将としての片鱗をのぞかせていました。そして四兄弟は父の仇・政長を死に追いやり、何かと政長の肩を持っていた細川晴元や、彼が擁立していた室町幕府将軍・足利義輝(あしかがよしてる)まで近江に追い出し、その結果、晴元によって運営されていた細川政権を崩壊させ、実質上長慶がトップとなる三好政権を樹立させたのでした。
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兄の政権基盤を安定させるために何でもする
追い出したとはいえ、晴元と義輝は常に京都復帰を狙っており、何度も小競り合いが起きました。江口の戦いの翌年には彼らが京都に攻め込んできますが、この時一存は兄に協力して戦闘に参加し、退けることに成功しています。
また、時には苦い行いをしなければならないこともありました。
かつて一存ら三好兄弟が父を失い阿波に逃れた時、迎え入れてくれた細川持隆(ほそかわもちたか)を、長慶や実休に対して不穏な動きがあったとして殺害したのです。これは兄・三好実休の主導で行われたことでしたが、あまり気の進むことではなかったかもしれません。