軍事面での大いなる貢献
永禄元(1558)年、長慶は再びやってきた細川晴元と足利義輝の軍勢と対決。これが北白川の戦いですが、この戦いの後、長慶は義輝とのみ和睦を結び、幕府との関係を修復してさらに勢力を拡大していきます。もちろん、一存もこの戦いには参加していました。
その後、一存は兄・長慶と対立した畠山高政(はたけやまたかまさ)を下すなど、軍事面で大いに兄を支えていきます。そして、交通の要衝とされている岸和田城(大阪府岸和田市)を任されました。というのも、岸和田城主の松浦(まつら)氏には後継者がないままだったので、一存の息子・信輝(のぶてる)が養子となって松浦氏を継ぐことになったからでした。この信輝がおそらくまだ幼かったため、一存は在城して後見をつとめたのです。
「鬼十河」との異名を取るも、早すぎる死を遂げる
戦場で無類の強さを誇った一存は、「鬼十河」との仇名をつけられるほどでした。また、部下にも尊敬されるカリスマ性を誇っていたと言われています。しかし、彼は若くして突然の死を遂げてしまいました。その死には暗殺説も囁かれ…いったい彼はなぜ亡くなったのか、ある人物とのかかわりなどもご紹介しましょう。
兄を支えた「鬼十河」
若い時から戦場で多くの敵を討ち取って来た勇将だった一存は、その強さから「鬼十河」との異名を取りました。舅の九条稙通(くじょうたねみち)からは、「婿の十河は武勇である」と評されていたのもうなずけます。
しかし、ただ強いだけではありませんでした。
ある敵を攻めたとき、一存は、近習(きんじゅ/主のそば近くに仕える者)の兄が敵方にいることを知りました。兄弟が敵味方に分かれて殺し合うのは忍びない…と思ったのでしょう。彼は近習に対し、「暇をやるから、兄と馬を並べて戦場に立つが良い」と言って咎めることなく離脱を進め、別れの盃を交わしました。
そして数日後、戦場で彼らは相まみえます。一存は負傷しながらも兄弟を討ち取ったのでした。結果的には兄弟の命を奪うことになりましたが、兄と弟が共に戦うという晴れ舞台を用意してやったのです。
部下から尊敬された一存
また、近習とその兄弟との戦いで傷を負った一存は、傷口に塩をすり込み、藤のツルを巻きつけて止血し、そのまま平然と戦いつづけました。その堂々たる様子が、人々から「鬼十河」と呼ばれるようになったゆえんなのだそうです。
そんな「鬼十河」一存に対し、家臣や一兵卒に至るまで、従う者たちの信頼と憧れの念は絶大でした。
一存は、前髪を全部抜き、頭頂部の月代(さかやき)と呼ばれる部分を広く剃りあげていたのですが、そのスタイルを「十河額」として真似する者も多かったとか。カリスマでもあったのですね。このスタイルは、江戸時代にも流行したことがあったそうですよ。
あまりにも早すぎた死
兄を支え、ゆくゆくは本当に天下を取らせたい…とそう思っていたであろう一存ですが、岸和田城を任されたその翌年の永禄4(1561)年、30歳の若さながら病により急逝してしまいました。
あまりにも早すぎる死と、その時そばにいた人物により、彼の死には暗殺説さえ浮上しています。そばにいた人物とは、松永久秀(まつながひさひで)。三好長慶の右腕であり、やがて三好政権を牛耳ることになる、戦国を代表する梟雄です。もちろん、久秀によって暗殺されたという証拠も何もありませんが、彼があまりにいわくつきの人物であるため、暗殺説も浮上したのでした。
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死の影には松永久秀が?
一存の死については、こんな逸話が残されています。
彼は死ぬ前の年から闘病生活を続けており、有馬温泉へと湯治に向かいました。そこに随行したのが松永久秀で、久秀は一存の乗る葦毛の馬を見て、「有馬権現は葦毛の馬がお嫌いと聞いております。その馬に乗るのはおやめになられてはいかがでしょうか」と提案しました。
しかし、一存は元から久秀を警戒しており、彼の言うことには耳を貸しませんでした。そのまま葦毛の馬に乗って有馬温泉に向かった一存ですが、突然落馬し、命を落としてしまったということです。こんな話が残るのも、ひとえに松永久秀にまつわる逸話が多いためなのですが。